その週の金曜日、柚李は一日中、胸の奥がざわついていた。
 理由はわかっている。
 ——今日、蒼士と会う可能性が高かったから。
 委員会の提出物をまとめる日。
 蒼士は副担当として必ず顔を出す。
 それだけなのに、朝から心臓が落ち着かない。
(どうしよう……昨日も、あんなふうに言われて)
 思い出すだけで、胸が熱くなり、苦しくなる。
 頼ってほしい。
 悩んでいるのを見るのが好きじゃない。
 名前を聞きたい。
 あの、言葉の一つ一つ。
 全部、まだ胸の中で生々しく響いている。
 
 ***
 
 放課後、委員会室のドアを開けると、蒼士が先に来ていた。
 窓の近くで書類を広げていて、光に沈む横顔が静かに美しい。
 名前を呼ばれただけで息が止まるのに、
 目が合った瞬間、胸が跳ね上がる。
「柚李、おつかれ。今日は早いね」
「蒼士こそ……」
 ぎこちなく返した声を聞いて、蒼士はふっと笑う。
「緊張してる?」
「してない……」
「ほんとに?」
 少しだけ意地悪な笑顔。
 年上の余裕が滲む表情に、柚李の心臓はまた早くなる。
「昨日のこと、気にしてる?」
 図星すぎて言葉が出ない。
 蒼士は資料を置き、ゆっくり柚李の前に歩いてきた。
「柚李、俺……変なこと言った?」
「変、じゃ……ないけど……」
 そう言った瞬間、蒼士はほんの少しだけ安堵したように微笑んだ。
「そっか。よかった」
 その笑顔が優しすぎて、また胸が痛む。
 
 ***
 
 作業が始まっても、二人の間には静かな緊張が漂っていた。
 距離は前と変わらないはずなのに、
 呼吸や指先が触れそうになるたび、心が揺れる。
 蒼士は時折、さりげなく柚李を気にかけてくれる。
「無理してない?」
「手、冷えてるけど大丈夫?」
「重いから俺が持つよ」
 全部が自然で、大人で。
 だけど優しさの温度が、前よりも近く感じた。
 気づかないわけがない。
 蒼士は——距離を詰めようとしている。
 でも、それは叶わない恋。
 叶えてはいけない恋。
 
 ***
 
 作業が終わり、委員会室を出たあと。
 階段の踊り場で、蒼士が立ち止まった。
「柚李、少し話せる?」
 逃げたほうがいい。
 わかっているのに、頷いてしまう自分がいた。
 二人きりになった静かな廊下。
 外はもう群青色の夕暮れに沈んでいた。
「昨日……俺、『名前聞きたい』って言ったよね」
 蒼士が手すりにもたれて、小さく笑う。
「あれ、忘れていいよ。柚李が言いたくないなら」
 その声は穏やかで、でもどこか寂しかった。
 胸がひどく痛む。
「でもさ」
 蒼士がゆっくりと続ける。
「柚李が、誰かの名前を言えないほど苦しんでるなら……
 俺は、その理由になれたらいいって思った」
「り、ゆ……に……?」
「うん」
 蒼士の目は、矛盾した色をしていた。
 優しさと、距離を測る不安と、言えない感情の影。
「ただ、味方でいたいだけ。柚李の」
 その言葉が、昨日の春斗の声と重なる。
(どうして……二人とも、こんなに優しいの)
 涙がにじむ。
 蒼士が一歩近づく。
 息が触れそうな距離まで。
「泣きそうな顔しないの」
「……してない」
「うん、してない。強がってるだけ」
 指先がそっと、柚李の目元に触れそうに浮いた。
 触れなかった。
 蒼士はぎりぎりのところで手を引く。
「……ごめん。これ以上は、ダメだよな」
 その小さな独り言みたいな声が、余計に胸をえぐった。
「帰ろうか。送るよ」
「だいじょうぶ、自分で帰れる」
「でも心配」
「平気」
 言い切ると、蒼士は少しだけ笑った。
「……じゃあ、駅まで見守って帰る」
「見守るの?」
「そう。背中だけ見て帰る」
「変な人」
「うん、そうかも」
 そうやって笑い合ったのに、
 離れていく足音の間に、痛いほどの静けさが落ちていった。
 
 ***
 
 家に着くころには、空に細い月が浮かんでいた。
 柚李は胸元を押さえる。
(どうして……こんなに、蒼士の一言一言が苦しいの)
 望んじゃいけない。
 わかってるのに。
 今日の蒼士は、まるで——
 何かを決めた人の目をしていた。
 その予兆に気づいたのは、胸が震えたからかもしれない。
 これから何かが変わる。
 ゆっくり、静かに。
 だけど確実に。
 そんな気配が、春の風の匂いにまぎれていた。