次の日、柚李は珍しく朝から落ち着かなかった。
 ポケットには、昨夜春斗から渡された星型のキーホルダー。
 触れると胸が痛むのに、手放そうとは思えなかった。
(春斗の気持ち、気づかないふりしてたのは……私だ)
 罪悪感で胸が重くなるたび、どうしても思い浮かべてしまう人がいる。
 ——蒼士。
 どうして自分は、こんなにも彼のことを考えてしまうんだろう。
 
 ***
 
 放課後の図書室には、静かな夕陽が差し込んでいた。
 委員会の資料を持って来た柚李は、棚の前で立ち止まる。
 そこに、蒼士がいた。
 落ち着いた横顔。白い指でページをめくる仕草。
 静かに微笑む、あの癖。
 全部、ずっと、忘れられなかった。
 柚李が立ち尽くすのに気づいたのか、蒼士はゆっくり顔を上げた。
「……柚李?」
 名前を呼ばれただけで、胸がじんと熱くなる。
「そんな隅っこで固まってどうしたの。こっち来なよ」
 自然すぎる笑顔に、足が勝手に前へ進む。
 蒼士の隣に座ると、心臓の音が大きくなるのが自分でもわかる。
「最近、見かけなかったね。忙しかった?」
「う、ん……ちょっとね」
 曖昧に笑ってごまかすと、蒼士はふっと目を細める。
「顔に出てるよ。何かあったでしょ」
 その優しさが危険だと知っているのに、逃げられなかった。
 ため息みたいに、柚李はこぼす。
「……誰にも言えないこと、あって」
「ふーん……誰にも?」
「うん」
「じゃあ、俺に話してもいいんじゃない?」
 心臓が止まりそうになる。
 蒼士は変わらない大人の表情で、
 でもどこか少しだけ寂しそうな瞳で、柚李を見つめていた。
 言えない。
 言えるわけがない。
 蒼士のことが好きで、苦しくて、どうしようもないなんて——。
 
 ***
 
「ねぇ柚李」
 蒼士が不意に椅子から立ち上がり、窓の前に歩いた。
 夕陽に照らされた横顔が切なくて綺麗で、息が止まる。
「……俺はさ」
 背中越しに、どこか遠くを見るみたいに言う。
「自分の気持ち、ちゃんと向き合わないと後悔するタイプなんだよね」
 その言葉は、柚李の心臓をまっすぐ撃ち抜いた。
「だから——もし柚李が誰かで悩んでるなら」
 蒼士がゆっくり振り返る。
 光の中で、優しいけれど触れたら壊れそうな表情だった。
「その人の名前、聞いてもいい?」
 喉がきゅっと締まる。
 どう答えても、誰かを傷つけてしまう。
 誰も悪くないのに、どこにも出口がない。
「……言えないよ」
 それだけを絞り出すと、蒼士は小さく笑った。
「そっか。……でもそれでいい」
「え?」
「言えないほど大事なんだって、わかるから」
 蒼士の言葉は静かで、残酷で、優しかった。
「無理に聞かないよ。
 ただ……」
 彼はほんの少しだけ柚李に近づき、俯きながら言った。
「悩んで苦しんでる柚李を見るの、俺は好きじゃない」
 胸がぐらりと揺れる。
「……もっと、頼ってくれたらいいのに」
 その言葉は、春斗が昨日言ったのと同じものだった。
 でも、響き方がまるで違う。
 ずるい。
 優しさが、こんなにも苦しくさせるなんて。
 
 ***
 
 委員会が終わり、帰り道。
 空には薄い三日月が浮かんでいた。
 柚李は、胸に手を当てる。
(どうして……こんなに蒼士の言葉に揺れるんだろう)
 春斗の想いも、蒼士の優しさも、全部大切なはずなのに。
 それなのに、どうして——。
 答えは、ひどく単純だった。
 蒼士のことが、ずっと、好きだった。
 初めて会った日も、名前を呼ばれた瞬間も、
 笑ってくれた時も、少し怒られた時でさえ。
 全部が、今もまだ胸の奥で生きている。
(忘れられるわけ……ないよ)
 そうつぶやいた瞬間、涙が一粒、頬を落ちた。
 届かない恋だとわかっているのに、
 それでも会いたくなる。
 ——それが、柚李の本当だった。