春が近づくころ、放課後の昇降口には、どこか寂しい風が流れ始めていた。
 柚李は、教室の窓辺で、ぼんやりと校庭を眺めていた。
 春斗が部活に向かう後ろ姿が小さくなっていく。
 最近、彼はよく振り返るようになった。
 まるで、柚李がそこにいるか確かめるみたいに。
 だけど、その視線に応えることはなかった。
 ……応えられなかった。
 蒼士のことを思うと胸が苦しくなって、春斗の優しさに触れるたび、もっと苦しくなる。
 どちらも失いたくなくて、でも、どちらにも手を伸ばせない。
 そんな自分が、一番ずるいとわかっていた。
 
 ***
 
 その日の帰り道、駅までのゆるい坂道。
 薄暗い街灯の下で、春斗がぽつりと言った。
「柚李さ、最近……なんか元気ないよね」
 彼の声はいつもと変わらない柔らかさなのに、どこか痛いほど真っ直ぐだった。
「無理して笑わなくてもいいよ。俺、ずっと見てきたし」
 “ずっと”の部分が、やけに胸に刺さる。
「春斗……」
「……誰かのことで悩んでるんでしょ?」
 歩きながら、春斗は続ける。
「好きな人、いるんだよね」
 言葉が止まる。
 心臓が、大きく跳ねた。
 否定しようとしても、喉が震えて言葉が出ない。
 春斗は、それを全部わかっていたみたいに、小さく笑った。
「そっか。……当たりか」
 笑っているのに、その目はひどく寂しそうだった。
「ごめん……春斗」
「謝るのはなし」
 春斗の声が静かに遮る。
「柚李が誰を好きでも、俺は柚李の味方でいたい。でも……」
 そこで初めて、春斗が歩みを止めた。
 街灯の光の中、彼の表情が鮮明に浮かぶ。
「でも、俺がどれだけ好きかだけは、知っててほしい」
 息が止まる。
 そう言いながら、春斗はポケットから小さなキーホルダーを取り出した。
 柚李が前に欲しいと言っていた、あの星型のやつ。
「渡すつもりなかったけど……今日じゃないと無理だ、きっと」
 彼はそっと柚李の手にそれを乗せた。
 触れた瞬間、胸がぎゅっと締まる。
「これ、ちゃんと受け取ってくれたら……それで十分。
 “俺の気持ちが届かない”ってことは、それだけで証明になるから」
 その言葉は、優しすぎて残酷だった。
 柚李はそれをぎゅっと握りしめることしかできない。
「春斗……ほんとに、ごめん……」
 涙がこぼれそうだった。
 春斗は優しく笑って、頭をそっと撫でた。
「いいの。叶わない恋って、誰にだってあるんだよ。俺もそのひとりだったって、それだけ」
 そして、彼は一歩さがり、いつもの明るい声で言った。
「帰ろっ、柚李。泣きそうな顔してんじゃねぇよ」
 歩き出した背中が揺れて、街灯に長い影が伸びる。
 その影が、二人の距離のように見えて、柚李はそっと視線を落とした。
 届かない想い。
 でもそれでも、誰かを真剣に想った証が、
 今、柚李の手のひらで小さく光っていた。