蒼士先輩と並んで歩く帰り道は、
夕焼けの色がすでに夜へ溶けはじめていて、
街灯が少しずつ灯り始めていた。
先輩の歩幅に合わせて歩くのはもう慣れていた。
でも今日は、
その歩幅一つひとつに胸が締めつけられるような重さがあった。
「……ごめんね」
蒼士先輩がぽつりと言った。
「え……何が、ですか?」
「今日、委員会に来れなかったの。
 本当は……行くつもりだった」
「でも、予定があったんですよね?」
「それもある。
 ……でも、行かなかった理由の半分は、
 君に会ってどう振る舞えばいいかわからなかったからだよ」
立ち止まりそうになる言葉だった。
「ど、どういう……」
「……春斗と話してたの、見てしまったから」
静かな声なのに、
その奥に隠れた“嫉妬”が確かに聞こえてしまって、
私は呼吸を飲み込んだ。
蒼士先輩が、嫉妬。
そんなもの、あるはずないと思っていた。
大人の余裕があって、
何にも揺れない人だと思っていた。
だけどその余裕の奥で、
こんな風に揺れていたのだと思うと、胸が熱くなる。
「……言わなくてよかったのに」
私が小さく言うと、
蒼士先輩は歩を止めて、こちらに向き直った。
街灯の下で見上げるその目は、
今まででいちばん、
揺れていた。
「柚李のこと、気にするなって言われても無理だよ」
「年上だからって、そう簡単に割り切れない」
その言葉が胸の奥に深く刺さる。
「……先輩……」
「君が誰と話してるのか、
 どんな顔してるのか……
 本当は、どうでもよくなんてない」
大人の余裕を失いかけたその声は、
とても反則だった。
胸がぎゅっと苦しくなる。
嬉しくて、苦しくて、泣きそうになる。
「でも…」
蒼士先輩は視線を落とす。
「年齢も立場も、全部わかっている。
 だから……踏み込めないんだ」
その横顔は、
誰よりも優しくて、
誰よりも遠い。
近づいてほしいのに、
近づいてはいけないことを
彼自身が一番よくわかっている。
その距離が、痛かった。
家の近くの公園に差し掛かった時、
蒼士先輩がふと足を止めた。
「ここまででいいかな」
「……はい」
夜風が冷たく、
桜の葉がざわめく音だけが聞こえる。
蒼士先輩は少し迷ったあと、
ゆっくりと私の方へ向き直った。
「柚李、今日……泣きそうな顔してた」
「え……」
「春斗に何を言われたか、全部は聞かない。
 でも、あの顔は……一人にしておけないと思った」
胸の奥が熱くなる。
どうしてそんなに優しいの。
どうしてそんなに遠いの。
「……大丈夫です」
そう答えたのに、
蒼士先輩は首を横に振った。
「大丈夫じゃない。
 君の“平気です”は、全然平気じゃないから」
その言葉に、
自分の心がほどけていくのがわかった。
涙が出そうで、必死にこらえる。
「……先輩も、ずるいですよ」
「……そうだね」
蒼士先輩は苦笑して、
声を落とした。
「君が誰かに好かれるたび、
 安心するどころか、胸が苦しくなるんだ」
沈黙が落ちる。
心臓が暴れる。
呼吸が浅くなる。
「それって……」
「言っちゃいけないことだよ。
 わかってる」
蒼士先輩は小さく息を吐いた。
「でも……柚李が泣きそうな顔してると、
 もう何が正しいのか、わからなくなる」
その時だった。
夜風が吹いて、
桜の花びらが二人の間を通り過ぎた。
遠くの街灯が淡く揺れて、
蒼士先輩の影が長く伸びる。
彼は、ゆっくり手を伸ばすように見えた。
けれど、途中で止めた。
触れられそうで、触れられない。
「……ごめん」
その一言は、
深すぎるほどの感情を含んでいた。
「今日は帰りなさい。
 泣くのは……家で、誰にも見られないところで」
私はうなずくしかできなかった。
蒼士先輩は背を向け、
ゆっくりと歩き出す。
その歩幅が痛いほど遠く感じて、
胸が締めつけられる。
――好き。
――苦しい。
心が触れた夜だったのに、
触れられない距離を、痛いほど思い知る夜だった。
その背中を見送った瞬間、
こぼれそうだった涙がひとつ落ちた。