春の風はまだ冷たくて、
でも校庭に差す光だけはすっかり春だった。
入学して間もない4月。
高校という場所に慣れたふりをしながら、
私──**柚李(ゆり)**は、毎日どこか浮いているような気がしていた。
友達はできていた。
クラスも悪くない。
でも、
“自分がどこに立っているのか”が、まだわからない。
そんな気持ちを抱えたまま、
委員会の初回顔合わせの日がきた。
配られたプリントには、
「環境・整備委員会」と書かれている。
正直、第一希望ではなかったけど、
静かな場所が好きな私には合っているのかもしれない。
教室に入ると、
先輩たちが数名いて、談笑している。
その中のひとりが、
すっと目に入った。
一人だけ背が高くて、
落ち着いた雰囲気で、
笑う時の目がやさしい。
蒼士(そうし)先輩。
名前は配布資料の名簿で知っていた。
二年生で、副委員長。
静かで、周囲に合わせて話すタイプじゃなく、
でもどこか安心感のある人。
初めて見たのに、
なぜか“前から知っていた気がする”ような、不思議な感覚がした。
「……一年生かな?」
声をかけられた瞬間、
胸が少しだけ跳ねる。
近くで見る蒼士先輩は、
思っていたよりも柔らかくて、
でも近寄りがたい空気もあった。
「あ……はい。柚李です」
名札を指しながら答えると、
先輩はゆっくりと笑った。
「柚李。珍しい名前だね」
声の低さが心地よく響く。
名前を呼ばれただけなのに、
どうしてだろう。
心の奥が、くすぐったくなる。
「よろしく。今日は簡単な説明だけだから、気楽にね」
そう言って、軽く資料を渡してくれた。
その指先が少しだけ私の手に触れた気がして、
一瞬息が止まる。
…なんで。
こんなことで、こんなに動揺してるんだろう。
説明が終わったあと、
一年生たちは解散になった。
でも私は帰るタイミングを少し逸して、
教室の後ろで荷物をまとめていた。
廊下の向こうから、
体育館の方へ向かう男子たちの声が聞こえる。
「春斗ー!早く来いって!」
同級生の**春斗(はると)**が、
笑いながら返事をしている声がした。
春斗は朝から何度か私に話しかけてくれて、
クラスでは割と人気者だ。
でも私は、彼が話してくれるたびにどこか距離を取ってしまう。
理由は自分でもわからない。
ただ、心の中に小さく空いた“居場所の空洞”が、
まだ埋まっていないだけ。
ふと顔を上げると、
教室の入り口に蒼士先輩が立っていた。
「あれ、まだいたの?」
「えっと、帰ろうと思ってたんですけど……荷物がうまく入らなくて」
「そっか」
先輩は近づいてきて、私のリュックを見て笑った。
「…入らないよね、それじゃ。ほら」
何気なくチャックを広げて、
書類の角度を変えて、
綺麗にしまってくれる。
ほんの数十秒のことなのに、
世界がすごく静かになって、
心臓の音だけがやけに大きく感じる。
「これで入ったよ」
「……ありがとうございます」
自然と視線が上を向く。
近い距離で目が合ってしまう。
その瞬間、
先輩がふっと目を細めた。
「柚李って、いい名前だね。
なんか……春みたいで」
その言葉が胸にすっと沈んだ。
こんなふうに名前を見てくれる人、今までいなかった。
返事をしようとしたのに、
喉がぎゅっと詰まって声が出ない。
先輩は気づいたのか、
軽く笑って私の頭をぽん、と叩いた。
「また委員会で会おう。ゆっくり慣れていけばいいから」
そのまま窓の外に目を向け、
体育館へ向かう男子たちの姿を眺めるように言った。
「春斗も、元気な子だね。
ああいうタイプに好かれると大変だよ?」
「え、な、なんでそう思うんですか……」
「なんとなく。
君、放っておけない雰囲気してるから」
その言葉が、
胸の奥で甘く痛く響いた。
そして先輩は言う。
優しいけど、少し離れたような声で。
「気をつけなね、柚李」
名前を呼ばれた。それだけなのに、
心がゆっくりと動き始める。
春風の匂いが、
静かに教室を通り抜けていった。
その日、
私はまだ気づいていなかった。
――この人が、
私の“はじまり”になることを。
そして、
いつか忘れたいのに忘れられない“痛み”になることを。
でも校庭に差す光だけはすっかり春だった。
入学して間もない4月。
高校という場所に慣れたふりをしながら、
私──**柚李(ゆり)**は、毎日どこか浮いているような気がしていた。
友達はできていた。
クラスも悪くない。
でも、
“自分がどこに立っているのか”が、まだわからない。
そんな気持ちを抱えたまま、
委員会の初回顔合わせの日がきた。
配られたプリントには、
「環境・整備委員会」と書かれている。
正直、第一希望ではなかったけど、
静かな場所が好きな私には合っているのかもしれない。
教室に入ると、
先輩たちが数名いて、談笑している。
その中のひとりが、
すっと目に入った。
一人だけ背が高くて、
落ち着いた雰囲気で、
笑う時の目がやさしい。
蒼士(そうし)先輩。
名前は配布資料の名簿で知っていた。
二年生で、副委員長。
静かで、周囲に合わせて話すタイプじゃなく、
でもどこか安心感のある人。
初めて見たのに、
なぜか“前から知っていた気がする”ような、不思議な感覚がした。
「……一年生かな?」
声をかけられた瞬間、
胸が少しだけ跳ねる。
近くで見る蒼士先輩は、
思っていたよりも柔らかくて、
でも近寄りがたい空気もあった。
「あ……はい。柚李です」
名札を指しながら答えると、
先輩はゆっくりと笑った。
「柚李。珍しい名前だね」
声の低さが心地よく響く。
名前を呼ばれただけなのに、
どうしてだろう。
心の奥が、くすぐったくなる。
「よろしく。今日は簡単な説明だけだから、気楽にね」
そう言って、軽く資料を渡してくれた。
その指先が少しだけ私の手に触れた気がして、
一瞬息が止まる。
…なんで。
こんなことで、こんなに動揺してるんだろう。
説明が終わったあと、
一年生たちは解散になった。
でも私は帰るタイミングを少し逸して、
教室の後ろで荷物をまとめていた。
廊下の向こうから、
体育館の方へ向かう男子たちの声が聞こえる。
「春斗ー!早く来いって!」
同級生の**春斗(はると)**が、
笑いながら返事をしている声がした。
春斗は朝から何度か私に話しかけてくれて、
クラスでは割と人気者だ。
でも私は、彼が話してくれるたびにどこか距離を取ってしまう。
理由は自分でもわからない。
ただ、心の中に小さく空いた“居場所の空洞”が、
まだ埋まっていないだけ。
ふと顔を上げると、
教室の入り口に蒼士先輩が立っていた。
「あれ、まだいたの?」
「えっと、帰ろうと思ってたんですけど……荷物がうまく入らなくて」
「そっか」
先輩は近づいてきて、私のリュックを見て笑った。
「…入らないよね、それじゃ。ほら」
何気なくチャックを広げて、
書類の角度を変えて、
綺麗にしまってくれる。
ほんの数十秒のことなのに、
世界がすごく静かになって、
心臓の音だけがやけに大きく感じる。
「これで入ったよ」
「……ありがとうございます」
自然と視線が上を向く。
近い距離で目が合ってしまう。
その瞬間、
先輩がふっと目を細めた。
「柚李って、いい名前だね。
なんか……春みたいで」
その言葉が胸にすっと沈んだ。
こんなふうに名前を見てくれる人、今までいなかった。
返事をしようとしたのに、
喉がぎゅっと詰まって声が出ない。
先輩は気づいたのか、
軽く笑って私の頭をぽん、と叩いた。
「また委員会で会おう。ゆっくり慣れていけばいいから」
そのまま窓の外に目を向け、
体育館へ向かう男子たちの姿を眺めるように言った。
「春斗も、元気な子だね。
ああいうタイプに好かれると大変だよ?」
「え、な、なんでそう思うんですか……」
「なんとなく。
君、放っておけない雰囲気してるから」
その言葉が、
胸の奥で甘く痛く響いた。
そして先輩は言う。
優しいけど、少し離れたような声で。
「気をつけなね、柚李」
名前を呼ばれた。それだけなのに、
心がゆっくりと動き始める。
春風の匂いが、
静かに教室を通り抜けていった。
その日、
私はまだ気づいていなかった。
――この人が、
私の“はじまり”になることを。
そして、
いつか忘れたいのに忘れられない“痛み”になることを。


