夜の気配がすっかり街を包み込み、冷たい空気が頬を撫でた。
柚李は歩く速度を少し緩めた。
隣を歩く春斗は、何も言わずに同じ歩幅を合わせてくれる。
その沈黙が、胸に沁みた。
「……さっきの、ほんとにごめんね」
ようやく絞り出せた言葉。
春斗は、柚李の横顔を一瞬だけ見て、すぐ前を向いた。
「謝らなくていい。柚李が謝ることじゃない」
優しすぎる声だった。
その優しさが逆に苦しい。
「でも……」
「でもじゃなくてさ。俺は、言いたくて言ったわけじゃない」
春斗は少し笑った。
けれどその笑顔は、強がりの形にしか見えなかった。
「気づかれないようにしてたつもりだったんだよ。柚李が困るのわかってるし。でも……今日のあれ見たら、もうダメだった」
“あれ”――蒼士が自分に封筒を渡したあの瞬間。
春斗は、気づいてしまったのだ。
蒼士の目の色。
自分の胸がざわめく音。
柚李が黙り込んでしまった理由。
全部。
「俺、ずっと思ってたんだ。柚李が困ってるときに支えたいって。笑っててほしいって。それだけでよかった」
春斗の声は、少しだけ震えていた。
「でも、蒼士先輩が関わると……柚李、表情が変わるんだよ。俺じゃ見たことない顔する」
柚李の喉がきゅっと痛む。
否定しようとしたけれど、できなかった。
春斗は、気づいている。
蒼士も、気づいている。
そして自分も――。
誰も、誰の気持ちも壊したくない。
だけどもう、壊れ始めている。
「春斗……ほんとに、ごめん……」
かすれた声でそう言うと、春斗は足を止めた。
そしてゆっくりとこちらを見つめる。
「違うって。謝るのは違うんだよ」
そう言いながら、少しだけ柚李に近づく。
手を伸ばしかけて、でも触れない。
その距離――ほんの数十センチが、永遠みたいに遠い。
「俺、触れないって決めてるんだ」
「……え?」
「好きな人が、別の人を想ってる時にさ。触れたら、ダメだから」
切なさが胸に流れ込んでくる。
自分なのに、自分じゃないところで誰かが傷ついていく。
風が吹いた。
春斗の髪が揺れる。
その影が冷たく夜に落ちる。
「でも……見てるのも、苦しいんだよ」
ようやく本音がこぼれたように聞こえた。
「柚李は、先輩の方を見る。先輩も、柚李を見る。でもふたりとも、同じ気持ちなのに言わない。……なんで言わないの?」
その問いは、胸の奥深くまで刺さった。
答えられない。
言いたくても、言えない。
「怖いから……」
小さく柚李は呟いた。
「先輩のこと考えると、気持ちがぐちゃぐちゃになる。どうしたらいいかわからない。言ったら、全部壊れそうで……」
春斗は少しだけ目を細め、静かに頷いた。
「そっか……。じゃあさ」
一度息を吸い、小さな勇気を振り絞るみたいに言った。
「壊れても、いいんじゃない?」
心臓が跳ねた。
春斗は続ける。
「壊れたら痛いし、苦しいし、泣くかもしれない。でもさ。柚李だけが苦しむのは違うと思う。……好きって気持ちは、ひとりで背負うもんじゃないんだよ」
その言葉は、あたたかくて、切なかった。
自分を想ってくれる気持ちが、あまりにも真っ直ぐで。
「春斗は……優しすぎるよ」
「優しくなんかないよ。だって俺……こんなに、ずっと、苦しいんだから」
春斗は笑った。
泣き出しそうな笑顔だった。
その時。
スマホが震えた。
画面には一言だけ。
――“さっきは渡せてよかった。また話したい。蒼士”
その文字を見た瞬間、胸がぎゅっと掴まれた。
春斗が、柚李の表情で察してしまう。
ほんの一瞬だけ、彼の目に影が落ちた。
「……行きなよ」
春斗の声は優しかった。
そして、悲しかった。
「蒼士先輩のとこ。……行きたいんでしょ?」
夜風が吹いた。
冷たさが、涙の気配を隠してくれた。
柚李は答えられないまま、ただその場に立ち尽くす。
触れられない距離のまま――
三人の想いだけが、静かに夜に滲んでいった。
柚李は歩く速度を少し緩めた。
隣を歩く春斗は、何も言わずに同じ歩幅を合わせてくれる。
その沈黙が、胸に沁みた。
「……さっきの、ほんとにごめんね」
ようやく絞り出せた言葉。
春斗は、柚李の横顔を一瞬だけ見て、すぐ前を向いた。
「謝らなくていい。柚李が謝ることじゃない」
優しすぎる声だった。
その優しさが逆に苦しい。
「でも……」
「でもじゃなくてさ。俺は、言いたくて言ったわけじゃない」
春斗は少し笑った。
けれどその笑顔は、強がりの形にしか見えなかった。
「気づかれないようにしてたつもりだったんだよ。柚李が困るのわかってるし。でも……今日のあれ見たら、もうダメだった」
“あれ”――蒼士が自分に封筒を渡したあの瞬間。
春斗は、気づいてしまったのだ。
蒼士の目の色。
自分の胸がざわめく音。
柚李が黙り込んでしまった理由。
全部。
「俺、ずっと思ってたんだ。柚李が困ってるときに支えたいって。笑っててほしいって。それだけでよかった」
春斗の声は、少しだけ震えていた。
「でも、蒼士先輩が関わると……柚李、表情が変わるんだよ。俺じゃ見たことない顔する」
柚李の喉がきゅっと痛む。
否定しようとしたけれど、できなかった。
春斗は、気づいている。
蒼士も、気づいている。
そして自分も――。
誰も、誰の気持ちも壊したくない。
だけどもう、壊れ始めている。
「春斗……ほんとに、ごめん……」
かすれた声でそう言うと、春斗は足を止めた。
そしてゆっくりとこちらを見つめる。
「違うって。謝るのは違うんだよ」
そう言いながら、少しだけ柚李に近づく。
手を伸ばしかけて、でも触れない。
その距離――ほんの数十センチが、永遠みたいに遠い。
「俺、触れないって決めてるんだ」
「……え?」
「好きな人が、別の人を想ってる時にさ。触れたら、ダメだから」
切なさが胸に流れ込んでくる。
自分なのに、自分じゃないところで誰かが傷ついていく。
風が吹いた。
春斗の髪が揺れる。
その影が冷たく夜に落ちる。
「でも……見てるのも、苦しいんだよ」
ようやく本音がこぼれたように聞こえた。
「柚李は、先輩の方を見る。先輩も、柚李を見る。でもふたりとも、同じ気持ちなのに言わない。……なんで言わないの?」
その問いは、胸の奥深くまで刺さった。
答えられない。
言いたくても、言えない。
「怖いから……」
小さく柚李は呟いた。
「先輩のこと考えると、気持ちがぐちゃぐちゃになる。どうしたらいいかわからない。言ったら、全部壊れそうで……」
春斗は少しだけ目を細め、静かに頷いた。
「そっか……。じゃあさ」
一度息を吸い、小さな勇気を振り絞るみたいに言った。
「壊れても、いいんじゃない?」
心臓が跳ねた。
春斗は続ける。
「壊れたら痛いし、苦しいし、泣くかもしれない。でもさ。柚李だけが苦しむのは違うと思う。……好きって気持ちは、ひとりで背負うもんじゃないんだよ」
その言葉は、あたたかくて、切なかった。
自分を想ってくれる気持ちが、あまりにも真っ直ぐで。
「春斗は……優しすぎるよ」
「優しくなんかないよ。だって俺……こんなに、ずっと、苦しいんだから」
春斗は笑った。
泣き出しそうな笑顔だった。
その時。
スマホが震えた。
画面には一言だけ。
――“さっきは渡せてよかった。また話したい。蒼士”
その文字を見た瞬間、胸がぎゅっと掴まれた。
春斗が、柚李の表情で察してしまう。
ほんの一瞬だけ、彼の目に影が落ちた。
「……行きなよ」
春斗の声は優しかった。
そして、悲しかった。
「蒼士先輩のとこ。……行きたいんでしょ?」
夜風が吹いた。
冷たさが、涙の気配を隠してくれた。
柚李は答えられないまま、ただその場に立ち尽くす。
触れられない距離のまま――
三人の想いだけが、静かに夜に滲んでいった。


