春斗の前で泣きつかれ、
 柚李はその晩、布団に入っても眠れなかった。
 蒼士の言葉も、
 春斗の覚悟も、
 どちらも胸の奥で熱を残していて。
 天井を見つめても、目を閉じても、
 息を吸っても吐いても、心臓が落ち着かない。
(なんで……こんなに苦しいんだろ)
 蒼士が好きだった。
 ずっと。
 届かないってわかっていても、諦められなかった。
 でも——
「春斗……」
 名前をつぶやくと、胸がじんと熱くなった。
 あんなに真っ直ぐに向き合われたら、
 あんなふうに待つと言われたら、
 揺れないわけがなかった。
 
 ***
 
 翌朝、校門をくぐった瞬間、
 柚李は息を呑んだ。
蒼士がいた。
 校門の脇、職員室へ続く階段の前。
 昔と変わらない穏やかな表情で、誰かの話を聞いている。
(……なんで?)
 蒼士がこの春で学校を離れる話は聞いていた。
 だから、もう会うことはないと思っていたのに。
 足が止まり、心臓がぎゅっと掴まれたように痛む。
 蒼士がふとこちらに気づき——
 一瞬、目が合う。
 そのたった数秒で、
 胸の奥にしまったはずの気持ちが全部蘇る。
 でも蒼士は、大人の距離感のまま、小さく会釈しただけだった。
 優しいけれど、踏み込まない。
 昔と同じなのに、今はその優しさがいちばん遠い。
 柚李は思わず視線をそらし、早歩きで校舎へ向かった。
 
 ***
 
 教室に入ると、一番後ろの席で春斗がこちらを見た。
「おは……柚李?」
 春斗は一瞬で異変に気づき、
 机から立ち上がりかける。
「泣いた?」
「泣いてない……」
 でも声は震えていた。
 春斗は柚李の横まで来て、
 小さな声で聞いた。
「……会ったんだな。蒼士さんに」
 言われた瞬間、胸が痛いほど締まる。
 答えられなくても、
 答えは見透かされていた。
 春斗は深く息を吸い、
 ほんとは言いたくなさそうに、でも覚悟を決めた顔で言った。
「柚李……蒼士さん、今日学校に来るって聞いた。
 たぶん……最後の挨拶だと思う」
 柚李の心が揺れる。
 最後の挨拶。
 その言葉だけで、息がうまく吸えなくなる。
「行きたいなら行けばいいよ」
 春斗の声は、優しいのに痛かった。
「俺の前で泣いたからって、縛られなくていい。
 蒼士さんのこと、ちゃんと終わらせたいなら……行ったほうがいい」
 この人はいつだって、
 自分より先に柚李の気持ちを優先する。
 だからこそ、胸が苦しくなる。
「……春斗は、やだって言わないの?」
 震える声で聞くと、
 春斗はほんの少しだけ、悲しそうに笑った。
「言いたいよ。
 ほんとは、“行かないでくれ”って引き止めたい。
 蒼士さんのことなんて忘れて……って言いたい」
 胸がドクンと揺れる。
「でも……そんなこと言っても、柚李は笑えなくなるだろ?」
 その優しさが、胸の奥を刺した。
「柚李の心が向く方向に行けばいい。
 俺は……そのあとでいいからさ」
 春斗はそう言って、柚李の頭にそっと手を置いた。
 優しい。
 苦しいほど優しい。
 
 ***
 
 昼休み。
 廊下を歩いていると、突然背後から声がした。
「柚李」
 蒼士だった。
 振り返る前から、胸が震えていた。
 蒼士は柚李の前で立ち止まり、
 落ち着いた声で言った。
「……さっきは、驚かせたな」
「ううん……」
 柚李の声は小さかった。
 蒼士は少しだけ視線をそらし、
 どこか言いづらそうに続けた。
「今日でこの学校に来るのは、本当に最後なんだ」
 その「最後」という言葉が胸を刺す。
「だから……君にだけ、ちゃんと言っておきたかった」
 蒼士の目が柚李を捉える。
 痛いほどやさしい目。
「昨日のことは——
 俺が弱かった。
 あんなふうに言って、泣かせたくなかった」
 喉の奥がつまる。
「でも……君のことを想った分だけ、距離を置かないと……って思ったんだ」
 柚李は息を呑む。
(蒼士も……苦しんでたんだ)
「ただ……」
 蒼士は小さく笑い、続けた。
「それでも、君に会えてよかった」
 その一言で、視界が滲む。
 蒼士の言葉はどれも優しいのに、全部刺さる。
「柚李。
 君が誰を選んでもいい。
 どんな未来を進んでもいい。
 俺は……君の幸せを願ってる」
 その言葉は、美しくて、残酷だった。
(なんで……そんなに優しいの)
 涙がこぼれて止まらない。
 蒼士はそっとハンカチを差し出し、
 でも触れなかった。
「さよならは言わない。
 ただ……ありがとう」
 蒼士はそう言って、廊下をゆっくりと去っていった。
 柚李の心は、傷つけられたわけじゃない。
 だけど、優しさの形で深くえぐられていた。
 
 ***
 
 遠くで、誰かの足音が近づいてくる。
「……柚李!」
 春斗だった。
 涙に濡れた柚李を見て、走ってくる。
「大丈夫か? 何言われた?」
 柚李は何も言えず、ただ涙を流す。
 春斗はその涙の理由が
 蒼士であることを悟っていながら、
 柚李を責めることはしなかった。
「……来いよ」
 優しく言いながら、柚李の肩を支える。
「泣いていいって言っただろ。
 全部泣いていいよ」
 蒼士の温度が遠ざかり、
 春斗の温度がそばにある。
 二つの想いがまたぶつかり、
 柚李は声を殺して泣いた。
 
 ***
 
 蒼士の影が遠ざかるほど、
 春斗の存在が胸に染み込んでいく。
 でもそのどれも、
 まだ答えにはならなかった。
 柚李の心は、
 まだ揺れたまま。