蒼士が図書室から去ったあと、
 柚李はしばらく動けなかった。
 涙の跡が乾いた頬がつっぱる。
 手のひらには、さっきまであった蒼士の温度が残っている。
(終わっちゃった……)
 はっきりと口に出したくない言葉が、胸の奥で沈んでいく。
 でも、その痛みを誰かに言ってしまえば、本当に終わってしまう気がして。
 柚李は静かな図書室の中、
 取り残されたみたいに立ち尽くした。
 
 ***
 
 帰り道、春の風が頬をなでる。
 景色は昨日と同じなのに、全部違って見えた。
 信号の前で足を止めたとき、スマホが震えた。
 画面に表示された名前は——
春斗
 胸が少しだけ重くなる。
『今日、帰り一緒に帰れる?』
 たったそれだけのメッセージ。
 なのに、今の柚李にはすぐ返せなかった。
(春斗は……悪くないのに)
 でも、今のまま会ったら、
 蒼士の温度を抱えた顔をしてしまう。
 どう返せばいいのかわからず、
 そのままスマホを握りしめて歩き出した。
 
 ***
 
 家に着いても、胸の奥の痛みは薄れなかった。
 部屋のドアを閉めると、急に涙が溢れてくる。
「……蒼士……」
 好きだった。
 優しさも、声も、距離感も。
 でも、その優しさが今日、自分を遠くへ押しやってしまった。
 声を殺して泣いていると、
 またスマホが震いた。
 さっきと同じ名前。
春斗:『大丈夫?』
 心配されるほど、胸が締めつけられる。
(大丈夫じゃないよ……でも……言えないよ)
 春斗はずっと、自分のそばにいてくれた。
 冗談を言って笑わせてくれたり、誰より気にかけてくれたり。
 その優しさに、何度救われたかわからない。
 なのに今、春斗の優しささえ受け止められない。
 ただ苦しくて、申し訳なくて。
(ごめんね、春斗……今は、何も返せない)
 メッセージを開いたまま、柚李は布団に顔を埋めた。
 
 ***
 
 次の日の学校。
 廊下を歩いていると、
 春斗がこちらを見つけて近づいてきた。
「柚李、おはよ。昨日さ、——」
 言いかけて、春斗は柚李の表情に気づいた。
「……泣いたの?」
「え……っ」
 思わず右手で目元を隠す。
 だけど春斗は優しく見てきた。
「言いたくないなら、言わなくていいよ」
 その一言が、胸を刺す。
 春斗は無理に聞かず、ただ隣に歩幅を合わせてくれた。
 いつも通り。
 でも……それが逆に痛かった。
(春斗の優しさ、ずるいよ……)
 心の奥の声がこぼれる。
 本当にずるい。
 春斗の優しさは、
 蒼士とはまた違う温度で、
 あったかいのに刺さるように苦しかった。
 
 ***
 
 放課後。
 誰もいない音楽室で、柚李は窓を開けた。
 春の風が吹き込み、カーテンが揺れる。
 蒼士の最後の言葉が何度も頭に蘇る。
「俺のことは……この春で終わりにしていい」
(そんなの……言わないでよ)
 胸が痛んで、肩が震える。
 そこに、きしむようなドアの音がした。
 振り向くと——
春斗が立っていた。
 優しい目をしているけれど、
 どこか不安を隠しているようにも見える。
「柚李……泣いてる?」
「……泣いてない」
「嘘だよ」
 春斗はゆっくり近づいてくる。
 逃げ場がなくなるほど近づいて、
 でも触れない距離で止まる。
「……誰のことで泣いてるの?」
 その問いは、あまりにも真っ直ぐだった。
 逃げられない。
 春斗は目をそらさずに続けた。
「俺じゃ……ダメなんだよな?」
 心臓が、落ちるように痛んだ。
 言葉が喉につかえる。
 春斗の声は震えていなかった。
 ただ、悲しいほど優しかった。
「柚李が誰を見てるのか……ずっと知りたかった」
 蒼士と同じことを言う。
 でも、意味は全然違う。
「でもな……俺は、知らないままでいいなんて思えない」
 春斗の瞳がゆっくりと揺れた。
「知りたい。ちゃんと……柚李の答えを知りたい」
 その直球の想いが、
 柚李の胸を強く揺さぶった。
 蒼士は「知らなくていい」と言った。
 春斗は「知りたい」と言う。
 二人の選んだ答えは、こんなにも違う。
 柚李は唇を震わせた。
(私……どうしたいの……?)
 答えなんて出ない。
 蒼士の温度はまだ胸に残っている。
 春斗の存在は、胸の奥で静かに広がっている。
 どちらも苦しくて、どちらも大事で。
 今の柚李には一つも選べない。
 ただ、涙がまた落ちた。
 春斗はその涙を見て、少しだけ眉を下げた。
「……大丈夫。待つから」
 その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいった。