翌朝。
 柚李は、胸の奥にひっそり重たい石を抱えたまま学校へ向かった。
 蒼士からのメッセージが頭の中で何度も反響する。
「明日、時間ある?」
「話したいことがある」
 たったそれだけの言葉なのに、眠れないほど不安で、
 同じくらい期待してしまっている自分が、嫌になる。
(期待なんて……しちゃダメなのに)
 わかっているのに、止められなかった。
 
 ***
 
 昼休み前、蒼士から「放課後、図書室で待ってる」という連絡が来た。
 その一文を見ただけで、心臓が跳ね上がる。
 放課後が怖いようでいて、待ち遠しくて。
 授業の内容なんて頭に入らない。
 
 ***
 
 そして放課後。
 図書室のドアを開けると、春の光に沈んだ窓辺で、蒼士が待っていた。
 いつもの穏やかな顔。
 でも、どこか少しだけ違う。
 柚李は気づいた。
 蒼士の笑顔が、寂しい色をしていることに。
「柚李。……来てくれてありがとう」
「ううん……」
 少しの沈黙。
 お互いの間に置かれた静けさが、やけに重かった。
 蒼士は本を閉じ、深く息をついた。
「昨日のメッセージ……驚かせたよね」
「そんなことないよ……何か、あった?」
 問いかけた瞬間、蒼士の目が揺れた。
 覚悟を決める前の人の目だった。
「……話したいことっていうのはね」
 蒼士は窓の外に視線を向けた。
 沈む夕陽に照らされた横顔は、ひどく切なくて、
 胸が痛くなるほど綺麗だった。
「俺……来月、引っ越すことになったんだ」
 時間が止まったように感じた。
「え……?」
「仕事の関係で。急に決まって……断れない話だったんだ」
 言葉がうまく出てこない。
「そんな……急に……」
「うん。俺も急で困ってる。でも、行かないといけない」
 蒼士は優しく笑った。
 その笑顔が、今までで一番苦しそうだった。
「だから……いろいろ、区切りつけたくて」
 区切り。
 その言葉が胸に鋭く刺さる。
 
 ***
 
「柚李」
 蒼士は席から立ち上がり、柚李の前に来た。
「ずっと言うか迷ってたことがある」
 心臓が痛いほど鳴る。
 蒼士の声は震えてはいないのに、どこか脆かった。
「柚李が……誰を想ってるのか。
 昨日まで、俺は本気で知りたかった」
「……蒼士……」
「でもね。今日になって思ったんだ」
 蒼士は静かに言った。
「知らないままでいいって」
 その一言が、柚李の胸をひどくえぐった。
 どうして。
 どうしてそんな答えなの。
「柚李は……優しいからさ。
 もし俺が知ったら、きっと柚李は、俺を気にしてしまう」
 蒼士は、少しだけ視線を落とした。
「それで誰かとの距離を変えてしまうような子だから」
「そんなこと……」
「あるよ」
 蒼士の声が、ほんの少しだけ苦く笑った。
「だから——俺は柚李に、俺のことなんて気にしてほしくない」
 言葉の端が、わずかに震えている。
「柚李が幸せになるために、俺は邪魔になっちゃいけないんだよ」
 そう言った蒼士の顔は、
 初めて見るような、哀しい優しさに染まっていた。
 
 ***
 
「俺、ずっと柚李のこと見てたよ」
 唐突に放たれた言葉に、息が止まる。
「委員会でも、廊下でも、図書室でも。
 悩んでる顔してる時も、笑ってる時も」
 蒼士は続ける。
「頼られたいって、本気で思ってた」
 涙が溢れそうになり、柚李は唇を噛んだ。
「だったら、なんで……」
 震えた声がこぼれる。
「なんで……行っちゃうの……?」
 蒼士は答えなかった。
 答えられなかった。
 その沈黙だけで、全部わかった。
「しがみついたら……柚李の未来ごと引っ張っちゃう」
 蒼士の声がかすかに揺れた。
「そんなの……できないよ」
 
 ***
 
「だからね、柚李」
 蒼士は柚李の手を取った。
 優しく、でも離すための握り方で。
「俺のことは……この春で終わりにしていい」
 その瞬間、涙が一気に頬を伝った。
「やだ……そんなの……やだよ……」
 声が震えて、止められなかった。
 蒼士は悲しそうに微笑んだ。
「泣かせたくなかったのに」
 柚李の涙を拭いながら、
 蒼士は最後にそっと額を寄せた。
「俺が胸張って“好きだった”って言えるように……
 柚李は、この先ちゃんと幸せになって」
 言葉を失う。
 泣き声しか出ない。
「じゃあ、行くね」
 蒼士はゆっくりと離れた。
 離れる手が温かいほど、胸が冷えていく。
 その背中が歩き出した瞬間、
 柚李の世界が、静かに音を立てて崩れていった。
 
(どうして……どうしてこんな終わり方……)
 誰も悪くないのに。
 誰も責められないのに。
 届きかけていた想いが、
 蒼士が選んだ答えによって、そっと切り離されていく。
 柚李は、泣きながら呟くしかなかった。
「……好きだったよ……蒼士……」
 その声は誰にも届かず、
 夕陽の沈む図書室に、静かに溶けていった。