次の週、学校の空気が少しだけざわつき始めた。
 春休みが近いせいだけじゃない。
 柚李自身の中でも、何かがそっと音を立てて揺れていた。
 春斗の告白の余韻も、蒼士の優しさの温度も、
 どちらも胸の奥に残ったまま消えない。
 それなのに、どちらかを選べるはずもなかった。
(どうしたら……よかったんだろう)
 何度考えても答えは出なくて、
 ただ心だけがひりひりと傷ついていくのを感じていた。
 
 ***
 
 その日の昼休み。
 教室に戻ろうとした柚李は、階段の踊り場で偶然春斗を見つけた。
 ひとりで壁にもたれ、小さなため息をついている。
 声をかけようか迷ったけれど、
 気づいた春斗のほうが先に笑った。
「お、柚李」
 笑っているのに、目元に少し疲れが見えた。
「最近、会えてなかったな」
「……うん」
「委員会、忙しい?」
「そういうわけじゃ……」
 言葉に詰まると、春斗は一瞬だけ悲しそうな顔をした。
「そっか。まあ……無理させたくないしな」
 当たり前のように優しい。
 それが逆に胸を刺す。
「あのさ、柚李」
 春斗が、気持ちを切り替えるように背筋を伸ばした。
「今日、帰り……少しだけ話せない?」
 拒めなかった。
 罪悪感という名前の重さが、喉を押さえていた。
「……うん」
 その返事を聞いた瞬間、春斗は安心したように笑った。
「よかった」
 
 ***
 
 放課後。
 昇降口の前で待っていた春斗は、少しだけ緊張した顔をしていた。
 二人で校庭脇の並木道を歩く。
 夕方の風が冷たくて、少し肌寒い。
「柚李、最近ずっと悩んでるでしょ」
「……うん」
「俺、もう無理に聞かないって決めたし。
 でもさ……」
 春斗は、歩きながらポケットに手を入れた。
「柚李が誰を好きなのかくらい……わかるよ」
 柚李は立ち止まった。
 心臓がひどく痛い。
「え……」
「ずっと見てきたし。態度とか、声とか、目とか、全部」
 春斗は少し苦笑して、空を見上げた。
「大人っぽくて、優しくて、いつも気にしてくれる人。
 柚李が名前言わなくても……もうわかってる」
 気づいていたのなら、どうしてこんなに優しくできるの。
「……ごめん、春斗」
「謝るなって」
 それでも謝らずにいられなかった。
「春斗は……優しいよ」
「俺は別に優しくないよ」
 春斗は、急に足を止めた。
 そしてゆっくりと、柚李をまっすぐ見つめた。
「優しくなんかないよ。——今も、ほんとは奪いたいって思ってる」
 その声は震えていて、強くて、苦しかった。
「でも……できない。
 だって、柚李がその人を見てる顔、俺じゃ勝てない」
 瞳が滲む。
「春斗……」
「もし柚李が振り向いてくれたら、って何度も思ったよ。
 でもさ、無理やりこっちに引き寄せたら……柚李じゃなくなる」
 春斗はゆっくり笑った。
「ずるいのは俺じゃなくて、……好きになった相手だよ」
 その言葉に、胸が締めつけられた。
(なんで……そんなふうに思えるの)
 強くて、優しくて、痛いほど真っ直ぐで。
 柚李は知らないうちに涙をこぼしていた。
「泣くのずるい」
 春斗が困ったように笑う。
「泣かれたら、全部抱きしめたくなるじゃん」
 その言葉の意味を理解する前に、
 柚李の手の甲にそっと指先が触れた。
 触れたのは、一瞬。
 だけど、その一瞬で胸が震える。
「……大丈夫。泣いてもいいから」
 春斗は、言葉を選ぶようにゆっくり続けた。
「でも泣く時は、せめて俺の前で泣いて」
 その優しさに、耐えられなくなる。
(春斗を……こんなふうに傷つけてたんだ)
 気づいていなかった自分が、嫌になる。
 
 ***
 
 その帰り道、柚李はふと思った。
(私、誰も幸せにできてない……)
 春斗も、蒼士も。
 二人が優しいほど、柚李の心は壊れていく。
 そしてその夜。
 スマホの画面には、
 蒼士からの未読のメッセージがあった。
「明日、少しだけ時間ある?
 話したいことがある」
 その一文で、胸がざわつく。
 嬉しいはずなのに、怖い。
 ——明日。
 きっと何かが変わる。
 静かに均衡を保っていた心が、
 ゆっくりと、避けようのない音を立てて崩れていく。
 
(どうか……壊れませんように)
 そう願いながら、柚李は目を閉じた。
 けれど、その願いが届かないことを、
 薄々わかっている自分もいた。