秘めやかなる初恋 〜姉の許嫁に捧ぐ淡雪〜

遥斗からの熱心なアプローチと、志穂と悠真の確かな絆。二つの感情の波に挟まれ、雪菜の心は常に揺れ動いていた。眠れない夜が増え、食欲も細くなる。そんな雪菜の些細な変化に、両親や志穂は気づいていないようだったが、一人だけ、その変化を敏感に察知している人物がいた。
一条悠真。

ある日、雪菜は会社の帰り道、駅前の交差点で信号待ちをしていた。最近、仕事で少しミスをしてしまい、そのことで頭がいっぱいだった。深く溜め息をついたその時、ふいに肩を叩かれた。
振り返ると、そこに悠真が立っていた。
「雪菜。こんな所で何を一人で考え込んでいるんだい?」

悠真は、どこか心配そうな表情で雪菜を見つめていた。彼の突然の登場に、雪菜は心臓が飛び跳ねるほど驚いた。
「悠真さん…?どうしてここに」
「たまたま、取引先からの帰り道でね。君を見かけたものだから」

悠真は、雪菜の顔をじっと見つめる。
「何かあったのか?顔色が良くないように見えるが」
「いえ…そんなことは」
雪菜は慌てて笑顔を作ろうとしたが、うまくいかない。
「無理しなくていい。君は、嘘をつくのが苦手だからね」

悠真の声は穏やかだったが、その言葉には、雪菜の心の奥底を見透かすような響きがあった。雪菜は、彼の視線から逃れるように俯いてしまう。
「少し、仕事でうまくいかないことがあって…」
結局、雪菜は正直に打ち明けてしまった。悠真は、黙って彼女の言葉に耳を傾けてくれる。

「そうか。どんなことでも、話したくなったら聞くよ。一人で抱え込まないで」
その言葉は、まるで魔法のように雪菜の心を温めた。遥斗の真っ直ぐな好意とは違う、もっと深いところで、自分のことを理解し、気遣ってくれているような感覚。
悠真の視線が、雪菜の髪を撫でる風のように、優しく、そして切なく感じられた。

それからも、悠真が雪菜を気にかける場面は増えていった。
ある家族の夕食の席で、雪菜が食欲がないのを悟られないよう、静かに食事を進めていると、悠真がさりげなく雪菜の好きなスープを目の前に置いてくれたりした。
また、志穂が話に夢中になっている間に、悠真が雪菜の顔色をうかがうように、ちらりと視線を向けることが増えた。その視線は、ほんの一瞬だが、雪菜の心を強く揺さぶる。

「…疲れているのか?」
ある日、玄関で悠真が志穂を待っている間、雪菜が近くを通ると、彼は突然そう尋ねた。
「最近、君は少し無理をしているように見える。顔に無理な笑顔が張り付いている時がある」
その言葉に、雪菜はドキリとした。自分の気持ちを隠し、作り笑顔で過ごしていることを見抜かれていたのかと、恥ずかしくなる。

「そんな…ことは」
「いいや、ある。君は繊細だから、余計に。無理は良くない」
悠真の視線は、雪菜の瞳の奥をじっと見つめていた。その視線は、ただの気遣いではなく、もっと深い感情を湛えているように感じられた。まるで、彼女の抱える苦しみや寂しさを、すべて受け止めようとしているかのように。

雪菜は、悠真の言葉を聞くたびに、諦めかけていた恋心が、再び淡い火のように灯り始めるのを感じていた。
志穂の許嫁である彼が、なぜ、こんなにも自分を気にかけてくれるのだろう。
彼の優しさは、ただの「姉の妹」に対するものなのだろうか。
それとも…

確証はない。しかし、悠真が自分に向ける視線は、明らかに以前とは違う。
その視線が、雪菜の凍り付いていた心を、ゆっくりと、しかし確実に溶かし始めていた。
まるで、春の訪れを告げる陽光のように。
しかし、その温かさは、同時に、罪悪感という名の影も長く伸ばしていく。

このまま、彼の優しさに甘えていいのだろうか。
雪菜は、答えの出ない問いを胸に抱きながら、彼の視線から逃れるように、そっと目を伏せた。
その心は、希望と不安の間で、激しく揺れ動いていた。