秘めやかなる初恋 〜姉の許嫁に捧ぐ淡雪〜

予感の兆しは、瞬く間に現実のものとなっていった。
翌日から、西園寺遥斗の雪菜への接近は、誰の目にも明らかになった。朝、デスクに向かえば、彼のデスクにはすでに新しいコーヒーが置かれている。昼食は、自然と「一緒にどうですか?」と誘われることが増え、帰り道には「もしよかったら、少しだけ回り道しませんか?」と誘われる。

「片桐さん、この資料、先日の打ち合わせで少し不明な点があったので、ご意見伺えませんか?」
遥斗はそう言って、雪菜のデスクに頻繁に顔を出すようになった。仕事の相談という名目だが、話はすぐにプライベートな内容に逸れていく。

「片桐さんって、本当に本を読むのが好きなんですね。どんなジャンルを読まれるんですか?」
「休日はいつも家にいるんですか?もったいないですよ、こんなに天気がいいのに」

雪菜は、遥斗の真っ直ぐな視線と、屈託のない笑顔に戸惑いを隠せないでいた。彼は、まるで太陽のように裏表がなく、好意を隠すこともしない。その率直さに、雪菜は少しだけ居心地の悪さを感じていた。

ある日の昼休み、遥斗はいつものように雪菜を誘った。
「片桐さん、今日は気分を変えて、会社の外でランチにしませんか?評判のいいカフェを見つけたんです」
雪菜は少し迷った。いつもはオフィスの休憩室で済ませるか、デスクで軽く済ませてしまうことが多かったからだ。だが、彼の熱心な誘いに、断りきれなかった。

二人は、オフィス街の裏路地にある、可愛らしいカフェに入った。温かな木製のテーブルに、緑豊かな観葉植物。穏やかなBGMが流れる店内は、喧騒を忘れさせてくれるような空間だった。

「どうですか?雰囲気いいでしょう?」
遥斗が嬉しそうに尋ねる。雪菜は静かに頷いた。
「ええ、とても素敵ですね。教えてくださってありがとうございます」

サンドイッチを頬張りながら、遥斗は楽しそうに話しかけてくる。
「片桐さんって、本当に落ち着いてますよね。いつも穏やかで、僕みたいなガサツな人間には憧れます」
「そんなこと…ありません」
雪菜は小さく微笑んだ。

「ありますよ。僕なんか、すぐに感情的になっちゃうし、思ったことが顔に出るタイプだから。でも片桐さんは、いつも冷静で、周りをよく見てるよね」
遥斗の褒め言葉に、雪菜は少し頬が熱くなるのを感じた。

「あの…西園寺君は、どうしてそんなに…私に優しいのですか?」
雪菜は、意を決して尋ねた。遥斗の顔が、一瞬だけ真剣な表情に変わる。
「…優しい、ですか。それは‥」
遥斗は少し間を置いて、雪菜の瞳を真っ直ぐに見つめた。

「片桐さんが、僕にとって特別な人だから、だと思います」
その言葉に、雪菜の心臓が大きく跳ね上がった。まるで、直接的な告白のような言葉。
「私が…ですか?」
「はい。初めて会った時から、片桐さんには何か、惹かれるものがあったんです。大人しくて、控えめなのに、芯の強さも感じて。もっと知りたい、もっと一緒にいたい、そう思うようになりました」

遥斗の言葉は、率直で、何の偽りもないように聞こえた。雪菜は、彼の真剣な眼差しから目を逸らすことができなかった。悠真への想いでいっぱいの心の中に、遥斗の真っ直ぐな好意が、温かい雫のように染み込んでくる。
しかし、雪菜の頭の中には、すぐに悠真の顔が浮かんだ。

「西園寺君、私は…その気持ちには…」
言葉を濁す雪菜に、遥斗は小さく首を振った。
「返事は今すぐじゃなくていいんです。ただ、僕の気持ちだけは知っていてほしくて。僕は、片桐さんのことが好きです」

はっきりと告げられた言葉は、雪菜の心に深く刻み込まれた。遥斗の真っ直ぐな想いは、雪菜にとって、嬉しいと同時に、重くのしかかるものだった。彼女の心は、悠真への切ない片思いと、遥斗からの純粋な好意の間で、激しく揺れ動くのを感じていた。

カフェを出て、オフィスに戻るまでの道のり。
遥斗はいつも通りの明るい笑顔に戻っていたが、雪菜の心は波打ったままだった。
このまま、彼の気持ちに応えることはできない。
そう、わかっているのに。

なぜだろう、遥斗の優しさに触れるたびに、心に小さな、さざ波が立つのを感じるのは。
まるで、硬く凍っていた氷が、少しずつ、しかし確実に溶け始めているかのように。