秘めやかなる初恋 〜姉の許嫁に捧ぐ淡雪〜

悠真と志穂を見送った後、雪菜は再び自室に戻った。読書でもしようかと手にしたのは、ページをめくるのも忍びないほど古い洋書。しかし、文字を目で追うばかりで、内容は全く頭に入ってこない。悠真の優しい眼差しと、志穂の幸せそうな笑顔が、交互に脳裏を駆け巡る。

「私…何をしているんだろう」
ぽつりと、誰もいない部屋で呟いた。このまま、ずっと、影のように生きていくのだろうか。姉の傍らに咲く、小さな白い花のように。

そんな日は、いつも気分転換を兼ねて、会社のオフィスに出かけることにしていた。片桐財閥は多岐にわたる事業を手掛けているが、雪菜が勤務しているのは、グループ企業の一つであるデザイン部門のオフィスだった。社長令嬢という立場でありながら、彼女はごく一般的な社員として、地味だが着実な業務をこなしていた。

オフィスは活気に満ちていた。PCのタイピング音、電話の応対、打ち合わせの声。その中で、雪菜は静かに自分のデスクに向かう。
「片桐さん、おはようございます」

背後から、明るく爽やかな声が聞こえた。振り返ると、そこには西園寺遥斗が立っていた。彼は雪菜と同じ部署の同僚で、入社は雪菜より一年後輩だが、持ち前のコミュニケーション能力と仕事の飲み込みの早さで、すぐに周囲に溶け込んだ青年だった。
「西園寺君、おはようございます」

雪菜が軽く頭を下げると、遥斗はにこやかに笑った。
「今日はいつもより早くお出ましなんですね。何か急ぎの仕事でも?」
「いえ、少し気分転換に。読書に集中できなくて」
雪菜は正直に答えた。遥斗は、彼女のそんな素直な一面を、いつも面白がるように受け止める。

「それは残念。でも、ここにいれば、きっと気分も変わりますよ」
遥斗はそう言って、自分のデスクに向かった。彼の視線が、一瞬、雪菜の顔に留まったような気がしたが、雪菜は気のせいだろうと首を振った。遥斗は、いつも誰に対しても明るく、分け隔てなく接する。それが彼の魅力であり、性分なのだろう。雪菜自身も、遥斗には気を許している方だった。

午後になり、会議のために応接室に向かう途中、雪菜は廊下で悠真とすれ違った。
「悠真さん?」
雪菜が思わず声を漏らすと、悠真は驚いたように振り返った。
「雪菜?こんな所で会うとはね」

悠真がこのビルにいるのは珍しい。どうやら、別の事業部の会議で来ていたらしい。
「お姉様とデート中では?」
「ああ、ランチを済ませた後、彼女が、急な用事を思い出したんだ。それで、私もたまたまこのビルに用事があったものだから」

そう言って、悠真は少しだけ苦笑した。その表情は、志穂といる時とは違う、どこか疲れたような、しかし柔らかなものだった。
「そう、だったのですね」
雪菜は、彼の顔をじっと見つめた。普段の冷静沈着な悠真とは違い、目の奥に微かな揺らぎが見えるような気がした。

「雪菜は、ここで仕事?」
「はい。デザイン部門で、庶務的なことを」
「そうか。あまり無理はしないように」
再び、優しい言葉。しかし、その声には、朝とは違う、少しだけ親密な響きが混じっているように感じた。雪菜の心臓が、またしても不規則なリズムを刻む。
「悠真さんこそ、お疲れではないですか?少し、顔色が悪そうに」

雪菜は思わず、心配して言葉に出してしまった。悠真は一瞬目を見開いた後、ふっと笑った。
「よく見ているね。大丈夫だ。ありがとう」
彼の笑みは、いつもよりずっと近くて、温かかった。そして、雪菜の顔をじっと見つめる悠真の瞳には、ほんの一瞬、深く優しい光が宿った。それは、志穂に向けているものとは違う、もっと個人的で、心を揺さぶるような視線だった。
気のせいだろうか。

雪菜は、動揺を隠すように俯いた。たまたま疲れていただけ。たまたま、私を心配してくれただけ。そう、自分に言い聞かせる。
しかし、その日の夕方、会社を出ようとした雪菜の元に、遥斗が駆け寄ってきた。

「片桐さん、今日、この後時間ありますか?近くに美味しいカフェができたんですけど、良かったら…」
遥斗の誘いを、雪菜はいつものように、しかし、いつもより少しだけ迷いながら断った。断った後、遥斗は寂しそうな顔をした。

その夜、雪菜は眠りにつくことができなかった。
悠真のあの視線。遥斗の真っ直ぐな好意。

いつもはひっそりと隠していたはずの自分の感情が、淡雪のようにそっと解けだし、ざわめき始めているような予感がした。
この静かな日常に、何か大きな変化が訪れようとしている。
そんな、微かな予感の兆しを、雪菜は確かに感じていた。