秘めやかなる初恋 〜姉の許嫁に捧ぐ淡雪〜

雪菜が片桐家を出てから、一年半の月日が流れた。彼女は新しい街で、「田中雪」という偽名で、ひっそりと暮らしていた。カフェのアルバイトと、時折請け負うデザインの仕事で生計を立て、誰にも過去を語らず、心を閉ざしたまま生きていた。故郷の家族や悠真への罪悪感と、深い悲しみが、彼女の心を覆い続けていた。

しかし、運命は、時に残酷な再会をもたらす。
ある日の午後、雪菜がいつものようにカフェで働いていると、店のドアが開き、一人の男性が入ってきた。彼は、見慣れないスーツ姿の、長身の男性だった。雪菜は、顔を上げ、彼の顔を見た瞬間、心臓が凍り付いた。
そこに立っていたのは、一条悠真だった。

彼の顔は、以前よりも少しだけ精悍になり、目の下の隈も目立っていたが、間違いなく悠真だった。彼は、店内を見回し、そして、雪菜の顔を見た瞬間、その動きを止めた。悠真の瞳が、大きく見開かれる。
「…雪菜?」

彼の声は、震えていた。
雪菜は、手に持っていたトレイを落としそうになりながら、必死に平静を装おうとした。
「いらっしゃいませ。ご注文は、何になさいますか?」
雪菜は、努めて冷たい声で、悠真に尋ねた。偽名で生きている以上、彼に気づかれるわけにはいかない。

しかし、悠真は雪菜の言葉を無視し、ゆっくりと、しかし確かな足取りで彼女の元へと歩み寄ってきた。
「雪菜…君なのか?まさか…こんなところで…」
悠真の瞳には、驚きと、信じられないという感情、そして、長い間探し求めていた者を見つけた喜びが入り混じっていた。

「お客様、人違いです」
雪菜は、顔を背け、悠真から視線を逸らそうとした。
「田中雪、と申します。ご注文を伺いますので、他のお客様のご迷惑になりますので…」
雪菜は、必死に感情を押し殺して言った。
しかし、悠真は、雪菜の手をそっと掴んだ。その手は、温かく、そして、雪菜がかつて知っていた、あの優しい温もりを宿していた。

「人違いじゃない。君は、片桐雪菜だろう?私は…君をずっと探し続けていたんだ」
悠真の声には、切実な響きがあった。
雪菜は、悠真の手を振り払おうとしたが、彼の握力は強く、逃れることができない。

「離してください!私は、片桐雪菜ではありません!お願いですから、私の邪魔をしないでください!」
雪菜は、ほとんど叫ぶように言った。店内の他の客が、二人の様子を伺うように見ている。
悠真は、雪菜の必死な抵抗に、顔を曇らせた。
「雪菜…君に、話したいことがある。あの日のこと…君がいなくなってからのこと…」

悠真の瞳には、深い後悔と、そして、雪菜への想いが、再び燃え上がっているようだった。
「何もありません!私には、話すことなど何もありません!」

雪菜は、悠真の言葉を遮った。彼と話せば、あの日の記憶が、あの苦しみが、再び蘇ってしまう。それは、雪菜にとって、耐え難いことだった。
カフェの店長が、二人の騒ぎに気づき、慌てて近づいてきた。

「お客様、店内でのご迷惑は…」
「申し訳ありません。彼女は、私の大切な人です。少し、お時間頂けませんか?」
悠真は、店長に頭を下げ、雪菜の手を引いて、店から出ようとした。
雪菜は、必死に抵抗したが、悠真の腕の力には敵わなかった。

「離して!私に触らないで!」
雪菜の目から、涙が溢れ出した。それは、悠真との再会に対する、喜びでも悲しみでもない、ただただ、あの日の苦しみが再び訪れることへの、深い絶望と恐怖の涙だった。
カフェの外に出ると、悠真は雪菜の手を強く握りしめ、そのままタクシーへと乗り込んだ。

「どこへ行くの!?私をどこへ連れて行くつもり!?」
雪菜は、パニックに陥っていた。
「私のオフィスだ。落ち着いて話せる場所へ行こう」
悠真の声は、どこか強引だったが、その瞳には、雪菜を二度と手放したくないという、強い決意が宿っていた。
予期せぬ再会は、雪菜が懸命に築き上げてきた平穏な生活を、一瞬にして打ち破った。

悠真が、彼女の消えた足跡を見つけ出し、再び彼女の人生に現れたのだ。
雪菜の心の中では、あの日の苦しみと、悠真への抑えきれない想いが、激しくせめぎ合っていた。
この予期せぬ再会が、彼らの運命を、一体どこへ導くのだろうか。
物語は、再び大きく動き出そうとしていた。