秘めやかなる初恋 〜姉の許嫁に捧ぐ淡雪〜

悠真からの冷たい拒絶は、雪菜の心を深く傷つけた。遥斗からの優しさも受け入れられず、悠真への期待も裏切られ、雪菜は完全に孤独の淵に沈んでいた。仕事にも集中できず、ミスを重ねる日々。

そんな雪菜を、悠真は遠くから見ているだけだった。しかし、ある日、雪菜が抱えた大きなトラブルが、再び二人の運命を予期せぬ形で結びつけることになる。

雪菜が担当していたプロジェクトで、致命的なミスが発生した。重要なデザインデータが消失してしまったのだ。原因は、雪菜の確認不足だった。青ざめる雪菜。再提出までの時間はほとんどなく、このままではプロジェクト全体に甚大な影響が出てしまう。

「片桐さん、これはどういうことだ!すぐに再作成しなければ、取り返しのつかないことになるぞ!」
上司の怒鳴り声がオフィスに響き渡る。雪菜は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

心臓が激しく打ち鳴り、視界が歪む。全ては自分の責任だ。このままでは、会社に、そしてプロジェクトに関わる全ての人に迷惑をかけてしまう。
その時、会議室のドアが開き、悠真が入ってきた。
「どうしたんだ、騒がしいな」

悠真は、状況をすぐに理解したようだった。上司から報告を受け、消滅したデータと、再作成までのタイトなスケジュールを確認する。
「この期日で、完璧なデータを作り直すのは不可能に近い」

上司は顔面蒼白で呟いた。
その言葉を聞き、雪菜は絶望した。
「私…私のせいで…」
雪菜は、その場に崩れ落ちそうになる。
悠真は、その雪菜の姿をじっと見つめていた。その瞳には、以前のような冷徹さはなく、深い心配と、そしてどこか、微かな温かさが宿っていた。

「…落ち着いてください、片桐さん。まだ、方法はあります」
悠真はそう言って、すぐさま状況を分析し始めた。
「データ復旧の可能性は?バックアップは?…いや、それよりも、今は再作成を最優先すべきだ。だが、このレベルのデザインを一人でこなすのは無理だろう」
悠真は、部下のデザイナーたちに指示を出し、彼自身もPCの前に座った。
「私が手伝います」

彼の言葉に、雪菜は耳を疑った。悠真が、婚約発表後、自分を突き放したはずの悠真が、自ら助けを申し出たのだ。
「悠真さん…しかし、これは私の責任で…」
「今は責任論を語っている場合ではない。プロジェクトを成功させるのが最優先だ」

悠真の口調は厳しかったが、その瞳は、雪菜を強く励ますように輝いていた。
その日から、悠真と雪菜は、文字通り寝食を忘れてデータ再作成に没頭した。
他の社員たちが帰路についた後も、二人きりでオフィスに残った。

夜通しの作業が続く。コーヒーを淹れ、簡単な食事を摂る。
疲労困憊の雪菜に、悠真は栄養ドリンクを差し出してくれたり、短い休憩を促してくれたりした。
「大丈夫か?顔色がひどい」

悠真が、雪菜の額に触れ、熱がないか確かめる。その手のひらの温もりに、雪菜は思わず涙が滲んだ。
「悠真さん…私、本当に…」
雪菜は、自分の不甲斐なさ、そして、彼の優しさに触れて、感情が抑えきれなくなっていた。
「もういい。今は集中しろ」

悠真はそう言いながらも、雪菜の肩をそっと抱き寄せ、ポンポンと軽く叩いてくれた。
疲労困憊の中、雪菜は、悠真の意外な一面を垣間見た。
彼は、完璧なビジネスマンであるだけでなく、部下のピンチには、躊躇なく手を差し伸べる、情に厚い人間だった。
そして何よりも、彼の隣にいることが、これほどまでに心強く、安らぎを与えてくれるものだとは、雪菜は知らなかった。

徹夜明けの早朝、ようやく全てのデータが再作成され、最終チェックも終えた。
朝焼けが窓から差し込み、オフィスを淡い光で満たす。
「…これで、大丈夫だ」
悠真がそう呟くと、雪菜は緊張の糸が切れたように、その場に座り込んだ。

「悠真さん…本当に…本当にありがとうございました…!」
雪菜の目から、安堵と感謝の涙がとめどなく溢れ出した。
悠真は、静かに雪菜の隣に座った。そして、彼女の涙を拭うように、そっと頭を撫でてくれた。

「君の頑張りがあってこそだ。一人で抱え込まずに、私を頼ってくれてよかった」
その言葉は、以前、彼が自分を突き放した時の言葉とは全く違う、温かく、包容力のあるものだった。
雪菜は、悠真の肩にそっと寄りかかった。彼のスーツの匂い、温かい体温。

この時間が、永遠に続けばいいと、心から願った。
トラブルを共有し、共に困難を乗り越えたことで、二人の間には、これまで以上に深い絆が生まれたように感じられた。
それは、誰にも知られることのない、二人だけの「秘密の共有」だった。

しかし、この秘密の共有は、同時に、雪菜の心の中で、悠真への想いを、さらに燃え上がらせていく。
一度は諦めかけた恋が、再び、強く、鮮やかに色づき始めたのだ。
彼の優しさ、彼の強さ。その全てが、雪菜の心を捉えて離さない。

だが、この秘密は、いつか必ず、彼らを取り巻く世界を大きく揺るがすことになるだろう。
朝焼けの光の中で、雪菜は、悠真の肩に顔を埋め、ただ、静かに涙を流し続けた。