秘めやかなる初恋 〜姉の許嫁に捧ぐ淡雪〜

遥斗の決意と悠真の牽制。二つの異なる愛情が、雪菜の心を激しく揺さぶっていた。遥斗の真っ直ぐな優しさに触れるたび、悠真への叶わぬ恋を諦め、彼の元へ飛び込みたい衝動に駆られる。しかし、悠真が時折見せる葛藤の視線や、自分に向けられたとしか思えない気遣いが、雪菜の心を再び彼へと引き戻してしまうのだった。

ある日の夜、雪菜は遙斗からのメッセージに、意を決して返信を送っていた。
「西園寺君、あなたの優しさに、感謝しています。でも、私には…まだ、あなたの気持ちに応えることはできません。ごめんなさい」

遥斗を傷つけることは、雪菜にとって最も辛いことだった。しかし、悠真への想いを抱えたまま、遥斗の愛情に応えることは、彼に対してあまりにも不誠実だと感じたのだ。送信ボタンを押す指は震え、雪菜の瞳からは、またしても一筋の涙がこぼれ落ちた。

翌日、遥斗はいつものようにオフィスに出勤してきた。彼の顔には、微かな疲労と、隠しきれない寂しさが滲んでいた。しかし、雪菜の返信を責めることなく、彼はいつもと変わらない笑顔で雪菜に接しようとした。

「片桐さん、おはようございます。昨日は…メッセージ、ありがとうございました」
遥斗の声は、少しだけ沈んでいたが、それでも雪菜を気遣う優しさは変わらなかった。
「西園寺君…」

雪菜は、彼の優しさに、胸が締め付けられる思いだった。
その数日後、偶然にも雪菜と悠真が、二人きりで資料の最終確認を行うことになった。誰もいない会議室で、二人の間に流れる空気は、いつも以上に重く、張り詰めていた。
「片桐さん、例の資料の最終チェックだ。頼む」

悠真は、資料を雪菜に差し出した。その声は、いつも以上に冷静で、感情を押し殺しているようだった。
雪菜は、彼の様子に、何か違和感を覚えた。
「悠真さん…何か、お疲れですか?」
「いや、大丈夫だ。それより、資料に集中してくれ」

悠真は、雪菜から視線を逸らし、冷たく言い放った。
彼の態度に、雪菜は驚きと同時に、深い悲しみを覚えた。
以前、悠真が自分に向けてくれた、あの優しい視線は、もうどこにも見当たらない。彼が自分の心を見透かすように語りかけた言葉も、今はただの幻だったかのように思われた。
雪菜は、遙斗からの告白を拒否した。
遥斗は、それでも自分の傍にいてくれると言ってくれた。

それは、すべて、悠真への淡い期待を抱いていたからだ。
しかし、目の前の悠真は、まるで雪菜の感情を拒絶するかのように、冷たい壁を築いている。
「悠真さん…私、あの…」
雪菜は、意を決して、何かを伝えようとした。遥斗からの告白を断ったこと。悠真への想いを、ずっと抱えていること。
しかし、悠真は雪菜の言葉を遮った。
「雪菜さん。私と志穂の婚約は、決定した。君も、そのことを理解しているはずだ」

彼の声は、これまでにないほど厳しく、雪菜の胸に突き刺さった。
「私と君の間に、これ以上の私情を挟むべきではない。それは、君にとっても、私にとっても、志穂にとっても、不幸なことだ」
その言葉は、雪菜の心に、冷たい氷の刃のように突き立てられた。

悠真は、自分の感情を完全に押し殺し、志穂への責任感という名の壁の向こう側へと、退き下がってしまったのだ。
彼の瞳は、もはや雪菜の心の内を探るような光はなく、ただ冷たい言葉のみだった。

雪菜は、全身から力が抜けるのを感じた。
私の期待は、ただの幻だった。
悠真さんは、私から離れようとしている。

「…はい、悠真さん。仰る通りです」
雪菜は、震える声で答えるのが精一杯だった。
二人の間には、重苦しい沈黙が落ちた。
雪菜の心は、激しく打ち砕かれ、絶望の淵に突き落とされた。

遥斗の愛情を拒否し、悠真への淡い期待に賭けた雪菜の選択は、今、完全に裏目に出ていた。
このすれ違う想いは、雪菜の心を深く傷つけ、彼女を孤独の淵へと追いやった。

志穂は、この二人の間の張り詰めた空気にも、悠真の葛藤にも、雪菜の絶望にも、全く気づいていない。
彼女の目は、ただ、悠真との未来だけを真っ直ぐに見つめている。

雪菜は、重い足取りで会議室を出た。
彼女の淡雪色の初恋は、今、冷たい風に吹かれ、跡形もなく消え去ろうとしていた。