志穂と悠真の婚約発表は、片桐家と一条家にとって喜ばしい出来事だったが、悠真の心の中には、表面上とは裏腹に、深い葛藤の嵐が吹き荒れていた。婚約指輪を志穂の指にはめながら、彼の脳裏には、無理な笑顔を張り付けたまま、痛みに耐える雪菜の顔が焼き付いていたのだ。
その夜、悠真は自室の書斎で、一人、グラスを傾けていた。琥珀色の液体が、彼の心の中の複雑な感情を映し出すかのように、揺らめいている。
「…志穂」
悠真は、グラスを置くと、深くため息をついた。
志穂は、悠真にとって、幼い頃からの大切な存在だ。華やかで聡明、そして何よりも真っ直ぐで、彼を深く信頼し、愛情を注いでくれる。財閥の御曹司として、志穂との結婚は、家同士の繁栄を考えれば最善の選択であり、彼自身も、志穂に対しては深い敬意と、家族のような愛情を抱いている。この婚約は、彼の人生において、疑う余地のない未来のはずだった。
しかし、雪菜の存在が、その確固たる未来に、静かに、しかし決定的なひびを入れ始めていたのだ。
初めて雪菜を意識し始めたのは、いつからだろう。
最初は、志穂の可愛らしい妹として、ただ守ってやりたいという、ごく自然な保護欲だった。だが、彼女が年を重ねるごとに、その儚げな美しさと、内面に秘めた繊細さ、そして誰にも言えない苦しみを抱えていることを知るにつれて、悠真の心は、ただの愛情では片付けられない感情に囚われていった。
彼女は、いつも一歩引いて、周囲の賑わいを静かに見つめている。無理な笑顔の裏に隠された寂しさ。自分を押し殺して、他者を優先しようとする健気さ。
特に、最近の雪菜の憔悴しきった様子は、悠真の心を激しく揺さぶっていた。遥斗という男が雪菜に接近していることにも、悠真は気づいていた。遥斗の真っ直ぐな好意が、雪菜の心を少しずつ動かしていることも。
婚約発表のあの瞬間。
志穂に指輪をはめ、家族の祝福を受けている時、悠真の視線は、無意識のうちに雪菜を捉えていた。
その瞳に宿る、深い悲しみと絶望。引き攣った笑顔。
「…大丈夫か」
悠真は、心の中で雪菜に問いかけた。その時、彼の胸の奥で、激しい痛みが走った。
このまま、彼女を放っておくことはできない。
このまま、彼女が誰か別の男の元へ行ってしまうのを、黙って見過ごすことなど、できるはずがない。
悠真は、グラスの中の氷を指でなぞった。
志穂への責任感。家と家との約束。
それは、彼が生まれてからずっと背負ってきた、重い義務だった。
志穂を裏切ることは、彼にとって最も避けたいことだった。彼女の信頼を裏切り、傷つけることは、悠真の感情に反する。
だが、雪菜への想いは、もはや理屈では抑えきれないほどに膨らんでいた。
彼女を笑顔にしたい。彼女の傍にいたい。彼女の孤独を、自分が埋めてやりたい。
その感情は、彼の心臓を激しく打ち鳴らし、理性で蓋をしようとするほどに、溢れ出してくる。
「どうすればいいんだ…」
悠真は、誰に聞かせるでもなく、苦悶の声を漏らした。
志穂を選べば、雪菜の心を深く傷つける。そして、自分もまた、雪菜への想いを抱えたまま、一生後悔することになるだろう。
雪菜を選べば、志穂を裏切ることになる。家と家との関係も、彼の人生も、全てが複雑に絡み合い、崩壊するかもしれない。
どちらを選んでも、誰かが傷つく。
あるいは、皆が傷つくかもしれない。
悠真は、書斎の窓から、夜空を見上げた。
そこには、満月が、まるで彼の葛藤を見透かすかのように、冷たく輝いていた。
彼の心は、凍り付いた責任感と、燃え上がるような雪菜への想いの間で、激しく引き裂かれていた。
このまま、何もせず、全てを飲み込むべきなのか。
それとも、この抗えない感情に身を委ね、全てを壊してでも、雪菜の手を取るべきなのか。
悠真は、答えのない問いを抱えたまま、深く、長い夜を過ごすしかなかった。
彼の心の中では、淡雪のように儚い雪菜への想いが、冷たい氷に閉じ込められながらも、じわりと熱を帯び始めていた。
その夜、悠真は自室の書斎で、一人、グラスを傾けていた。琥珀色の液体が、彼の心の中の複雑な感情を映し出すかのように、揺らめいている。
「…志穂」
悠真は、グラスを置くと、深くため息をついた。
志穂は、悠真にとって、幼い頃からの大切な存在だ。華やかで聡明、そして何よりも真っ直ぐで、彼を深く信頼し、愛情を注いでくれる。財閥の御曹司として、志穂との結婚は、家同士の繁栄を考えれば最善の選択であり、彼自身も、志穂に対しては深い敬意と、家族のような愛情を抱いている。この婚約は、彼の人生において、疑う余地のない未来のはずだった。
しかし、雪菜の存在が、その確固たる未来に、静かに、しかし決定的なひびを入れ始めていたのだ。
初めて雪菜を意識し始めたのは、いつからだろう。
最初は、志穂の可愛らしい妹として、ただ守ってやりたいという、ごく自然な保護欲だった。だが、彼女が年を重ねるごとに、その儚げな美しさと、内面に秘めた繊細さ、そして誰にも言えない苦しみを抱えていることを知るにつれて、悠真の心は、ただの愛情では片付けられない感情に囚われていった。
彼女は、いつも一歩引いて、周囲の賑わいを静かに見つめている。無理な笑顔の裏に隠された寂しさ。自分を押し殺して、他者を優先しようとする健気さ。
特に、最近の雪菜の憔悴しきった様子は、悠真の心を激しく揺さぶっていた。遥斗という男が雪菜に接近していることにも、悠真は気づいていた。遥斗の真っ直ぐな好意が、雪菜の心を少しずつ動かしていることも。
婚約発表のあの瞬間。
志穂に指輪をはめ、家族の祝福を受けている時、悠真の視線は、無意識のうちに雪菜を捉えていた。
その瞳に宿る、深い悲しみと絶望。引き攣った笑顔。
「…大丈夫か」
悠真は、心の中で雪菜に問いかけた。その時、彼の胸の奥で、激しい痛みが走った。
このまま、彼女を放っておくことはできない。
このまま、彼女が誰か別の男の元へ行ってしまうのを、黙って見過ごすことなど、できるはずがない。
悠真は、グラスの中の氷を指でなぞった。
志穂への責任感。家と家との約束。
それは、彼が生まれてからずっと背負ってきた、重い義務だった。
志穂を裏切ることは、彼にとって最も避けたいことだった。彼女の信頼を裏切り、傷つけることは、悠真の感情に反する。
だが、雪菜への想いは、もはや理屈では抑えきれないほどに膨らんでいた。
彼女を笑顔にしたい。彼女の傍にいたい。彼女の孤独を、自分が埋めてやりたい。
その感情は、彼の心臓を激しく打ち鳴らし、理性で蓋をしようとするほどに、溢れ出してくる。
「どうすればいいんだ…」
悠真は、誰に聞かせるでもなく、苦悶の声を漏らした。
志穂を選べば、雪菜の心を深く傷つける。そして、自分もまた、雪菜への想いを抱えたまま、一生後悔することになるだろう。
雪菜を選べば、志穂を裏切ることになる。家と家との関係も、彼の人生も、全てが複雑に絡み合い、崩壊するかもしれない。
どちらを選んでも、誰かが傷つく。
あるいは、皆が傷つくかもしれない。
悠真は、書斎の窓から、夜空を見上げた。
そこには、満月が、まるで彼の葛藤を見透かすかのように、冷たく輝いていた。
彼の心は、凍り付いた責任感と、燃え上がるような雪菜への想いの間で、激しく引き裂かれていた。
このまま、何もせず、全てを飲み込むべきなのか。
それとも、この抗えない感情に身を委ね、全てを壊してでも、雪菜の手を取るべきなのか。
悠真は、答えのない問いを抱えたまま、深く、長い夜を過ごすしかなかった。
彼の心の中では、淡雪のように儚い雪菜への想いが、冷たい氷に閉じ込められながらも、じわりと熱を帯び始めていた。

