秘めやかなる初恋 〜姉の許嫁に捧ぐ淡雪〜

片桐雪菜は、いつもそうだった。

春の陽光が窓辺に差し込み、柔らかなレースカーテンを透かして、雪菜の白い肌を淡く照らす。彼女は、ごく薄いミントグリーンのルームウェアに身を包み、アンティーク調のドレッサーの前に座っていた。

手には、母から譲り受けた銀色のヘアブラシ。丁寧に、ゆっくりと、腰まで届く柔らかな栗色の髪をとかす。その動き一つ一つに、幼い頃から身についた上品さが滲み出ていた。

片桐財閥の令嬢。それが世間から見た雪菜の顔だった。何不自由なく与えられ、常に最高級の教育を受け、守られてきた。広大な庭園を持つ洋館、専属の運転手、家事一切を請け負う使用人たち。絵に描いたようなお嬢様暮らしは、雪菜にとって「日常」以外の何物でもなかった。

しかし、雪菜自身は、その肩書に全くといっていいほど頓着していなかった。人前に出れば、礼儀正しく微笑み、求められる役割をそつなくこなす。だが、心の奥底では、いつも一歩引いて、周囲の賑わいを静かに見つめているような性格だった。

目立つことは苦手で、意見を求められても、他者を慮って控えめな言葉を選ぶ。まるで春先にふわりと舞い散る淡雪のように、そっとそこに存在するような娘。

「雪菜、起きてる?朝食よ」
扉越しに聞こえる、明るく張りのある声。姉の志穂だった。志穂は雪菜とは対照的に、太陽のように輝く存在だ。父の会社で若くして役員を務め、社交界でも常に注目の的。華やかな美貌と、明晰な頭脳、そして何よりもその圧倒的な行動力で、周囲を惹きつけてやまない。
「ええ、もうすぐ行くわ、お姉様」

雪菜はふわりと微笑み、ヘアブラシを置いた。鏡に映る自分の顔は、相変わらずどこか憂いを帯びたような、儚げな瞳をしている。まるで、これから訪れる一日の始まりを、少しだけ怖がっているかのように。

ダイニングルームに足を踏み入れると、すでに志穂と両親が席についていた。温かな珈琲の香りと、焼きたてのパンの匂いが漂う。
「雪菜、おはよう。早くしないと、悠真さん来ちゃうわ」

志穂が、楽しそうに雪菜をからかう。悠真さん。その名を聞いた途端、雪菜の心臓が、微かに、しかし確かに跳ねた。いつも通りの何気ない朝の会話。それなのに、雪菜の胸の奥底には、ひっそりと隠された秘密が眠っていた。

一条悠真。
片桐家と並ぶ財閥の御曹司。志穂の許嫁であり、雪菜がこの世で最も強く想う人。
悠真は、志穂の彼だ。それは、揺るぎない事実だった。雪菜は、その事実を誰よりも理解し、そして、誰よりも苦しんでいた。

テーブルに並べられた美しい食器を見つめながら、雪菜は静かに、深いため息を心の中でついた。今日という一日も、また、この秘めたる想いを抱えて過ごすのだろう。淡雪のように溶けてしまいたいと願いながら。