幼馴染の影と三年目の誤解 ――その笑顔は、私に向かない

翌日の午後。
オフィスには、静かな空気が流れていた。

パソコンの画面の光が
由奈の顔を淡く照らす。
資料の修正に集中しようとするものの、
胸の奥のざわつきは消えなかった。

(隼人さん……今日は何時に帰ってくるんだろう)

時計を見るたび、心が少し沈む。
ここ最近、そればかりだ。

そんなとき。

ヒールの軽い音が近づいてきた。

「由奈さん、ちょっといいかしら?」

顔を上げると――
麗華が立っていた。

にこやかに微笑んでいるが、
その目だけは笑っていない。

「……はい、何でしょうか」

由奈は椅子から立ち上がり、
書類を胸に抱えた。

麗華は周囲を見回し、
誰も近くにいないと分かると、
一歩だけ距離を縮めてきた。

「ねえ、昨日の夜……隼人、遅かったでしょう?」

胸がドクンと跳ねた。

(どうして?……)

答えられずにいると、
麗華はあたかも気遣いのような声で続けた。

「仕事、すごく大変なのよ。
あの人、無理しちゃうタイプだから。
……昔から私がブレーキ役だったの」

由奈の心に、
静かに冷たい影が落ちる。

(……私じゃなくて、麗華さんが?)

麗華は、由奈の表情の揺れを
楽しむように観察していた。

「ねえ、由奈さん。
隼人のこと、ちゃんと見てあげてる?」

その声音は優しい。
だけど、その内容は刃物だった。

「最近、隼人……
“家じゃ休めてない”って言っていたわ。
昔は、どんなに忙しくても
私の前では力を抜いてくれたのにね」

由奈の指先から、
持っていた書類が少し滑り落ちそうになった。

(家じゃ……休めてない?
それって……私が悪いの?)

「ご、ごめんなさい……」

思わず謝ってしまう自分が情けなくて、
胸が苦しくなる。

麗華は“そこだ”と言わんばかりに続けた。

「謝る必要なんてないわよ。
ただ……
隼人が疲れてるときは、
無理に引き止めたりしないほうがいいかもしれないわね」

(……無理に、引き止める?
私、そんなこと……)

頭がぐらぐらと揺れる。

麗華はさらに優しい口調で、

「隼人って、鈍いから。
奥さんが泣きそうでも気づかないの。
……でも私の事は、すぐ気づくのよ」

その言葉は、
由奈の心の奥に深く刺さった。

由奈がいつも隼人の前で
泣きそうになっても我慢していることを
知らないはずなのに――
麗華は正確に、弱い部分だけを突いてくる。

(本当に……
私より、麗華さんのほうが
隼人を分かってるの?)

頬が熱くなり、
同時に冷たいものが背中を伝った。

麗華はその揺れを見て、
満足げに微笑む。

「じゃあ、またね。
今日は私、隼人と外回りだから」

(……また……二人で?)

麗華は軽やかにヒールを鳴らし、
何事もなかったかのように去っていく。

残された由奈は、
呼吸の仕方まで分からなくなるような胸の痛みに
ただ立ち尽くすしかなかった。

(隼人さん……
本当に、私じゃ……重荷?)

目頭が熱くなり、
涙が零れそうになる。

その瞬間。

オフィスの入り口から
隼人の低い声が聞こえてきた。

「由奈、今日……遅くなる」

その声は優しい。
けれど、その優しさには
“理由を話す気はない”という壁も感じる。

由奈は笑顔を作ろうとしたが、
唇が震えてしまう。

「……はい。気をつけてください」

隼人は気づかず、
スマホを見たまま麗華のほうへ歩いていった。

隼人の背中。
麗華の微笑み。
遠ざかる二人の距離。

(私だけ……蚊帳の外)

指先が冷たい。
胸が重い。

麗華が残した言葉が
耳の奥で何度も響いた。

――昔から、隼人は私の前でだけ力を抜いてくれたの。

――奥さんが泣きそうでも気づかないの。

――今日は私、隼人と外回り。

その全てが、
由奈の心をゆっくりと削っていく。

(どうしよう……
隼人さんが、本当に遠い……)

由奈は俯き、
机の上の書類を見つめたまま、
しばらく動けなかった。