休憩室を出たあと、
由奈はデスクに戻ることができなかった。
胸の奥が、ずきずき痛む。
麗華の言葉が、何度も反芻される。
――隼人は“自分じゃ由奈を支えられない”って言ってたのよ。
――あなたの涙を受け止める余裕がないの。
――愛しているなら、距離を置くのも優しさよ。
(……優しさ……?
私の……優しさ……?)
頭が混乱していた。
でもひとつだけ、
はっきりしていることがある。
(隼人さんは……きっと、私が負担なんだ)
昨日の抱擁。
あの震えた腕。
触れられないことを謝るような声。
(触れたいのに触れられない……
そうさせているのは、私……)
胸がしめつけられるように痛い。
(私がそばにいたら……
隼人さん、もっと苦しんじゃう……)
震える指先で、
バッグをそっと握った。
(……離れよう。
少しの間だけ。
私がいなければ……隼人さん、きっと楽になる)
決意した瞬間、
涙がぽたりと落ちた。
隼人のためにと願ったその選択は、
いちばん彼を傷つけるものだと
由奈はまだ知らない。
夕方。
オフィスを早退する理由を、
由奈はうまく言えなかった。
ただ「具合が悪くて」と伝えると、
上司は優しく頷いた。
エレベーターに乗り込み、
とてもゆっくりと降りていく。
胸の奥で、
決意が痛いほど重く響いた。
(隼人さんを……
守りたい)
それだけだった。
マンションに帰りつくと、
静かな部屋が迎えた。
どこか懐かしく、
温かくて。
隼人と過ごした日々が
一気に胸に迫ってくる。
食卓で笑ったこと。
一緒にテレビを見て肩が触れたこと。
隼人が不器用にコーヒーを淹れてくれたこと。
(……全部、大切だった)
涙がまた落ちた。
けれど、今は。
(ここにいたら……隼人さんの足を引っ張っちゃう)
バッグから
白い便箋とペンを取り出す。
いつか、隼人の誕生日に
手紙を書こうと思って買っていたものだった。
震える指で、
名前を書く。
「隼人さんへ」
視界がにじむ。
文字が歪んで見える。
由奈は深く息を吸い、
ペン先を紙に落とした。
隼人さんへ。
ごめんなさい。
私のせいで、たくさん悩ませてしまいました。
あなたが優しいから、
私が泣いたら困らせてしまうから、
そばにいるのが苦しいと
思わせてしまった気がします。
私、隼人さんに迷惑をかけたくありません。
本当に、ほんとうに
隼人さんのことが大切です。
だから少しだけ、
離れようと思います。
隼人さんのために。
あなたが楽になるように。
嫌いになったわけじゃありません。
離れたいわけでもありません。
でも今の私は……
隼人さんを支えられません。
そして
あなたの負担になる自分が
何よりつらいです。
どうか、体に気をつけてください。
由奈
書き終えた瞬間、
手紙が涙で波打った。
由奈はそっと息を吐いた。
「……隼人さん……ごめんなさい……」
手紙をテーブルの上に置き、
指先でそっと撫でる。
胸がちぎれそうに痛むのに、
それでも笑おうとした。
(これで……隼人さん、少しは楽になる……)
震える声で続ける。
「……少しだけ……離れますね……」
カバンを背負い、
玄関へ向かう。
手を伸ばし、
ドアノブを握る。
カチリ。
扉が開き、
冷たい廊下の空気が流れ込む。
一歩踏み出す。
――その瞬間。
エレベーターが到着する音がした。
「……?」
振り返ると、
扉が開き、
中から――
隼人が降りてきた。
少し乱れた呼吸、
濡れた前髪、
息を切らしたスーツ姿。
「由奈……?」
その呼びかけに、
由奈の心が揺れた。
(……隼人さん……)
隼人は由奈が荷物を持っているのを見て、
表情を凍らせる。
「……どこに、行くんだ?」
由奈は言えない。
言ったら泣いてしまう。
隼人は一歩、近づく。
心配と焦りで、声が震えていた。
「由奈……どうして荷物を持って……
まさか……」
由奈は唇を噛んだ。
(言えない……
隼人さんのために離れるなんて……
そんなの、言えるわけない……)
隼人の声が、さらに低く、切なく響いた。
「……俺から……離れるつもりなのか?」
その一言で、
由奈の涙が一気に溢れた。
――その手には、
まだ「手紙」が残されたまま。
夫婦の“破局の夜”が、
今まさに始まろうとしていた。
由奈はデスクに戻ることができなかった。
胸の奥が、ずきずき痛む。
麗華の言葉が、何度も反芻される。
――隼人は“自分じゃ由奈を支えられない”って言ってたのよ。
――あなたの涙を受け止める余裕がないの。
――愛しているなら、距離を置くのも優しさよ。
(……優しさ……?
私の……優しさ……?)
頭が混乱していた。
でもひとつだけ、
はっきりしていることがある。
(隼人さんは……きっと、私が負担なんだ)
昨日の抱擁。
あの震えた腕。
触れられないことを謝るような声。
(触れたいのに触れられない……
そうさせているのは、私……)
胸がしめつけられるように痛い。
(私がそばにいたら……
隼人さん、もっと苦しんじゃう……)
震える指先で、
バッグをそっと握った。
(……離れよう。
少しの間だけ。
私がいなければ……隼人さん、きっと楽になる)
決意した瞬間、
涙がぽたりと落ちた。
隼人のためにと願ったその選択は、
いちばん彼を傷つけるものだと
由奈はまだ知らない。
夕方。
オフィスを早退する理由を、
由奈はうまく言えなかった。
ただ「具合が悪くて」と伝えると、
上司は優しく頷いた。
エレベーターに乗り込み、
とてもゆっくりと降りていく。
胸の奥で、
決意が痛いほど重く響いた。
(隼人さんを……
守りたい)
それだけだった。
マンションに帰りつくと、
静かな部屋が迎えた。
どこか懐かしく、
温かくて。
隼人と過ごした日々が
一気に胸に迫ってくる。
食卓で笑ったこと。
一緒にテレビを見て肩が触れたこと。
隼人が不器用にコーヒーを淹れてくれたこと。
(……全部、大切だった)
涙がまた落ちた。
けれど、今は。
(ここにいたら……隼人さんの足を引っ張っちゃう)
バッグから
白い便箋とペンを取り出す。
いつか、隼人の誕生日に
手紙を書こうと思って買っていたものだった。
震える指で、
名前を書く。
「隼人さんへ」
視界がにじむ。
文字が歪んで見える。
由奈は深く息を吸い、
ペン先を紙に落とした。
隼人さんへ。
ごめんなさい。
私のせいで、たくさん悩ませてしまいました。
あなたが優しいから、
私が泣いたら困らせてしまうから、
そばにいるのが苦しいと
思わせてしまった気がします。
私、隼人さんに迷惑をかけたくありません。
本当に、ほんとうに
隼人さんのことが大切です。
だから少しだけ、
離れようと思います。
隼人さんのために。
あなたが楽になるように。
嫌いになったわけじゃありません。
離れたいわけでもありません。
でも今の私は……
隼人さんを支えられません。
そして
あなたの負担になる自分が
何よりつらいです。
どうか、体に気をつけてください。
由奈
書き終えた瞬間、
手紙が涙で波打った。
由奈はそっと息を吐いた。
「……隼人さん……ごめんなさい……」
手紙をテーブルの上に置き、
指先でそっと撫でる。
胸がちぎれそうに痛むのに、
それでも笑おうとした。
(これで……隼人さん、少しは楽になる……)
震える声で続ける。
「……少しだけ……離れますね……」
カバンを背負い、
玄関へ向かう。
手を伸ばし、
ドアノブを握る。
カチリ。
扉が開き、
冷たい廊下の空気が流れ込む。
一歩踏み出す。
――その瞬間。
エレベーターが到着する音がした。
「……?」
振り返ると、
扉が開き、
中から――
隼人が降りてきた。
少し乱れた呼吸、
濡れた前髪、
息を切らしたスーツ姿。
「由奈……?」
その呼びかけに、
由奈の心が揺れた。
(……隼人さん……)
隼人は由奈が荷物を持っているのを見て、
表情を凍らせる。
「……どこに、行くんだ?」
由奈は言えない。
言ったら泣いてしまう。
隼人は一歩、近づく。
心配と焦りで、声が震えていた。
「由奈……どうして荷物を持って……
まさか……」
由奈は唇を噛んだ。
(言えない……
隼人さんのために離れるなんて……
そんなの、言えるわけない……)
隼人の声が、さらに低く、切なく響いた。
「……俺から……離れるつもりなのか?」
その一言で、
由奈の涙が一気に溢れた。
――その手には、
まだ「手紙」が残されたまま。
夫婦の“破局の夜”が、
今まさに始まろうとしていた。

