その夜、由奈は一人でキッチンに立っていた。
鍋から立ち上る湯気を見つめながらも、
胸の奥は重い霧に包まれたまま。
(……隼人さん、今日はまた遅くなるって言ってた)
残業なのか、麗華と仕事なのか。
どちらかわからない不安は、
由奈の心を静かに揺らした。
(麗華さん……今日も隼人さんに相談していたし……)
胸が締めつけられる。
(私は……隼人さんの役に、立ってないよね)
そんな自責がよぎったときだった。
テーブルの上に置いたスマホが震えた。
ピッ
画面に“隼人”の名前が光った。
由奈の胸がきゅっと締まる。
(隼人さん……?
何だろう……)
震える指でメッセージを開く。
そこには、短い文章が並んでいた。
《仕事が忙しい》
《しばらく冷静になりたい》
《距離を置こう》
呼吸が止まった。
(……え……?)
目で追っても、文字が霞んで読めない。
何度も瞬きをする。
(きょ……距離……?
置く……?)
背中が一気に冷えた。
手からスマホを落としそうになる。
(私……何かした……?
隼人さんを怒らせるような……)
すぐに返信しようとするが、
指先が震えて打てない。
「……っ」
喉が熱くなり、
涙がにじみそうになる。
(泣いちゃ……だめ……)
祐真に言われた言葉が蘇る。
――泣く女って、一番嫌いなんだよ。
――面倒なんだよ。
(また……私……
隼人さんに面倒って思われた……)
胸の奥がぎゅっと潰れた。
そのとき。
背後で小さく足音がした。
「由奈?」
振り返ると、
隼人が玄関に立っていた。
予定よりずっと早い。
スーツの襟は少し濡れ、
息が乱れている。
(……隼人さん……?)
隼人は急いで帰ってきたのだと、
その姿だけでわかる。
「ただいま。
……遅くなるって言ってたけど、思ったより早く終わった」
優しい声。
けれど由奈は、その声を
胸の奥で受け止めることができなかった。
(どうして……
さっきメッセージ……)
気づいた隼人が言う。
「どうした?
顔色……悪いぞ」
由奈はスマホを胸元で強く握った。
怖くて、言えない。
“距離を置きたい”と言われたばかりの相手に、
何を言えばいいのかわからない。
「……なんでも、ありません……」
隼人の眉がわずかに寄る。
(また……隠してる。
また、言ってくれない)
隼人にも苦しさが広がる。
隼人がジャケットを脱いでいるあいだ、
由奈は震えたままスマホを見つめた。
(……なぜ、隼人さんは
さっきのメッセージのことを何も言わないの?
まさか……本当に送った覚えがないとか……
そんなわけ、ないよね)
思考が混乱しそうになる。
隼人はリビングに入り、
ふと由奈のスマホを見て気づいた。
《未読 0件》
(……由奈、誰かと連絡してた?
祐真……?)
胸の奥に嫉妬が走る。
触れたい。
抱きしめたい。
けれど——
また手が止まる。
(泣かせるかもしれない)
結局、その手は
ソファの背に落ちていった。
⸻
由奈は勇気を出して、
震えながら言葉を絞り出した。
「……隼人さん、さっき……
メッセージ……送ってませんか……?」
隼人は眉をひそめた。
「メッセージ?
送ってないぞ。
急いで帰ってきたから、むしろ触ってない」
由奈の顔から血の気が引いた。
(……え……じゃあ……
あれは……誰が)
隼人は不安げに歩み寄る。
「由奈?
何を見たんだ?」
その優しい声に、
胸の奥がじんわり痛くなる。
由奈はスマホの画面をそっと見せようとした。
でも——その瞬間。
画面がふっと暗くなり、
通知欄のメッセージが消えた。
由奈の指が震える。
(……消えてる……?
さっきまで、確かに……あったのに……)
隼人は心配して肩に触れようとしたが、
また直前で手を止めた。
(触れたら……また震えさせる)
その戸惑いが、
由奈には別の意味に聞こえた。
「……ごめんなさい。
変なこと……言いました」
「由奈、何があったんだ……?」
「本当に……なんでもないんです」
嘘。
言えない。
言ったら壊れる気がする。
その沈黙を破ったのは――
“ピッ”という通知音。
由奈のスマホに新着メール。
送り主は 麗華。
由奈は開く勇気がなかった。
でも隼人は、不安そうな目で言った。
「……開いていい」
由奈は震える指で、メールを開いた。
そこには、たった一文。
《隼人を責めないであげてね。
距離を置くって言い出したのは、辛かったからだと思う》
由奈の視界が揺れた。
(やっぱり……
隼人さんは……距離を……)
隼人の顔を見られない。
隼人はメールを盗み見ようとしない。
ただ、苦しそうに由奈を見ている。
(この子……また、何か信じ込まされてる)
隼人は喉が詰まりそうになった。
「由奈……それ、誰からだ?」
「……麗華さんです」
(やっぱり……)
麗華の影が、はっきりと見えた。
だが由奈は
もう何が真実か分からなくなっていた。
胸が痛い。
苦しい。
泣きたい。
なのに、泣けない。
由奈は、震えながら言った。
「……隼人さん。
あの……本当に……距離を置きたいん、ですか?」
隼人の目が大きく揺れた。
「違う!!」
その声に由奈の肩がまた震えた。
隼人も苦しそうに目を伏せる。
(また震えさせた……)
触れられない。
抱きしめられない。
でも言わないと、壊れる。
隼人は息を吸い、
絞り出すように言った。
「距離を置きたいなんて……
一度も思ったことない」
「でも……メッセージが……」
「送ってない!!」
「麗華さんが……」
「麗華を信じるな!」
隼人の声が上ずり、
由奈の瞳が怯える。
ふたりはまた、
すれ違ってしまった。
そして——
麗華が仕掛けた“偽りのメッセージ”は、
確実に由奈の心を折り始めていた。

