幼馴染の影と三年目の誤解 ――その笑顔は、私に向かない

夕方。
窓の外の光が淡く落ち、
ビルのガラスに街の夕暮れが映っていた。

由奈はデスクで書類をまとめながら、
深く息を吐く。

(……隼人さん、
私に何も言わなかったな……)

麗華と話していた隼人の後ろ姿が、
まだ胸に刺さっていた。

(私より……麗華さんのほうが、
隼人さんにとって話しやすいんだ)

その考えが頭から離れない。

胸の奥がずきりと痛む。

(でも、私……
隼人さんの役に立てていないもの)

そう思うたびに、
由奈の心は少しずつ削れていった。



同じ頃。
隼人は会議室から出てきた麗華から距離を取ろうとしながら、
スマホを取り出して由奈にメッセージを打とうとした。

――今日は帰り、迎えに行く。
――話がしたい。
――離れたくない。

どれも本音なのに、
指が止まる。

(言ったら……また由奈を追い詰めるかもしれない)

昨日の雨の夜が、
胸に重たく張り付いて離れない。

(……俺は、どうすればいい)

決められないまま、
メッセージは下書きに残される。



そんな隼人を見つめる影があった。

麗華だ。

彼女は隼人の横顔を見ながら、
静かに微笑んだ。

“焦り”と“迷い”を見抜いた笑み。

(いいわ。
そろそろ決めましょう、隼人)

麗華はスマホを取り出し、
誰かに短く連絡を送った。

――準備、お願い。

その相手は社内の同僚。
麗華の動かせる“コマ”のひとつ。

何が始まるのかを、
まだ誰も知らなかった。



そのころ、外の自販機前。

由奈が缶コーヒーを買おうとしたとき、
背後から声がした。

「……由奈?」

凍りついた。

この声を忘れられるわけがない。

ゆっくり振り返ると——

祐真が立っていた。

整った顔立ちも、
どこか冷たい目も、
記憶のまま。

だけど今は、
その冷たさに“狙い”があった。

「久しぶりだな。
昨日は……悪かった」

由奈は息を飲む。

(謝るなんて……
祐真さんらしくない……)

祐真は苦笑し、
歩み寄ってくる。

「怖がるなよ。
あんだけ震えられたら……
さすがに放っとけねぇだろ」

その言い方が、
懐かしいのに、胸を刺した。

由奈は一歩下がる。

「……あの、仕事が……」

祐真はさらに近づき、
声を落とす。

「もしかして……
あの旦那とうまくいってねぇの?」

由奈の目が揺れた。

祐真は、
嘘を見抜くのがうまい。

「だったら……話くらい聞かせろよ。
俺、由奈の泣き顔……嫌いじゃなかったし」

(……違う。
祐真さんは、泣く私が嫌いだった)

心の中で否定しても、
声にならない。

胸に苦しい影が広がっていく。

そのときだった。

ロビーのガラス越しに、
隼人の姿が見えた。

部署の同僚に呼ばれ、
真剣な表情で話を聞いている。

祐真はその視線の先に気づき、笑う。

「……ああ、なるほどな。
優しい顔して、結構冷てぇタイプか」

「ち、違います……
隼人さんは、そんな……」

「あいつがどうかなんて興味ねぇけど、
お前……追い詰められてんじゃね?」

由奈の胸が苦しくなった。

祐真は、
その弱さを見逃さない。

「なら……俺のとこに戻れよ。
昔みたいに」

――その瞬間。

「……何してる?」

低い声が背後から落ちた。

由奈も祐真も、
ビクリと振り返った。

隼人が立っていた。

濡れたような鋭い眼差し。
雨の夜に近づけなかった手とは正反対に、
彼は今、
由奈と祐真の距離を一瞬で測り取っていた。

「由奈」

その呼び方は、
怒りではなく——
明らかな“奪い返す”声だった。

祐真が口の端を上げる。

「お、旦那さん。
心配しなくても、ちょっと話してただけ——」

隼人は祐真を見なかった。

由奈だけを見つめ、
静かに問いかけた。

「……どうして、この男といる?」

その声は、
抑えられた限界の音だった。

由奈の心臓が震える。

胸の奥に隠していた不安が溢れそうになる。

祐真が横から言葉を挟む。

「別にいいだろ。
夫婦でも、話くらい——」

次の瞬間。

隼人の目が初めて、
祐真に向けられた。

射抜くような視線だった。

「由奈に……近づくな」

その静かな一言に、
祐真は初めて僅かに目を細めた。

(……やっぱり、ムカつくな)

その裏で——

麗華は廊下の角から、
その三人を見つめていた。

満足げな微笑みを浮かべながら。

(さあ……もっと揺れなさい、片岡夫婦)

影は、動き出した。

そして夫婦の心は、
今まさに“崩れはじめた”。