幼馴染の影と三年目の誤解 ――その笑顔は、私に向かない

マンションの灯りが、
雨に滲む夜道を照らしていた。

隼人と由奈は並んで歩いていたが、
肩が触れ合うことはなかった。

どちらも、一歩踏み出せない。

(……隼人さんの隣を歩くの、
こんなに緊張するなんて)

(どうしたら……
由奈は、笑ってくれるんだろう)

ふたりの心は真逆の不安で満ちていた。



玄関を閉めると、
外の雨音が遠のいた。

それだけで、
ふたりの鼓動が静けさの中に響く。

由奈は濡れた髪を押さえ、
隼人を見上げた。

「……ごめんなさい。
急に外へ出て……」

隼人は首を振る。

「謝るな。
俺が……追い込んだんだ」

その声は低く、胸を押しつぶすような自責が滲んでいた。

隼人が靴を脱ぐ仕草ひとつで、
由奈の胸は痛む。

(こんなに優しいのに……
だからこそ、苦しくなる)

隼人の表情が見えないと、
余計に不安が膨らむ。

(……本当は、迷惑だったんじゃないかな)

それでも由奈は、
やっとの思いで言った。

「隼人さん……
あの、今日のこと……ごめんなさい」

また謝る。

そのたびに、隼人は胸の奥が軋む。

「由奈……
俺は……怒ってない」

「怒ってないのに……
あんな言い方して、ごめんなさい」

「違う。
由奈は悪くない」

「悪いです……私、いつも……
泣きそうになったり……困らせてばかりで……」

由奈はうつむき、
さらに小さな声になりますようにと
願うように呟いた。

「……重いですよね、私」

その一言に、
隼人の心臓が強く跳ねた。

(……誰が、そんなことを言った)

喉まで出かけた怒りを、
隼人は飲み込む。

“重い”
その言葉の裏に、
祐真の影を確信してしまう。

拳を握る手が震えた。



リビングに移動しても、
ふたりの距離は縮まらない。

由奈はタオルで髪を押さえ、
ソファの端に座った。

隼人はタオルを差し出す。

「風邪ひくぞ」

「……ありがとうございます」

隼人は座りかけて——
由奈との距離が近づきすぎることに気づき、
無意識に少し離れた席に腰かけた。

その“わずかな距離”が、
由奈には鋭い痛みになって刺さる。

(離れた……?
やっぱり迷惑だった……?)

隼人は隼人で、
自分の動きに気づいていた。

(なぜ……触れられないんだ。
抱きしめたいのに……)

雨のように重い沈黙が降りる。

言いたいことが多すぎて、
どちらも口を開けなかった。



しばらくして、
隼人が静かに由奈へ顔を向けた。

「……今日、どうして家を出たんだ?」

その声は優しいのに、
どこか怯えたようにも聞こえた。

由奈は膝の上のタオルを握りしめる。

(言えない……
距離を置いたほうがいいって……
麗華さんに言われたなんて……)

隼人を傷つけてしまう。
そんなの、嫌だ。

だから——
また嘘をついてしまった。

「……ちょっと、気持ちを整理したくて……」

隼人の眉が揺れる。

「整理……?」

「はい……
私が……邪魔かなって……
隼人さんに……」

その瞬間、
隼人の呼吸が止まった。

(邪魔……?
俺の側にいることを、
邪魔だと思っているのは……由奈自身……?)

それは麗華の言葉が
由奈をどれほど追いつめていたかを示していた。

隼人は強く手を握りしめる。

「……違う」

言葉が震えた。

「由奈は邪魔なんかじゃない。
むしろ……いなくなる方が……嫌なんだ」

由奈の目が揺れる。

隼人は、
由奈の隣に座りたい。
触れたい。
抱きしめたい。

なのに足が動かない。

(どうしたら……この子は泣かずにすむ?
どうしたら、怯えずにすむ?)

その葛藤が、
隼人の身体を縛っていた。

由奈は膝を抱え、
かすかな声で言った。

「隼人さん……
私のこと……本当に嫌じゃないですか……?」

その問いが、
隼人の限界をまた押し広げた。

「嫌なわけないだろ……!」

あまりに真剣で、
あまりに必死な声。

由奈はびくっと肩を震わせる。

隼人は慌てて声を落とした。

「……ごめん。
驚かせるつもりじゃなかった」

でも、その声の奥底には
隠しきれない痛みがあった。

その痛みが、
由奈には―― “怒り”に聞こえた。

(隼人さんは……
本当は怒っているんだ……)

誤解は、深く重く積もる。



隼人はついに席を立ち、
由奈のそばへ歩み寄った。

触れられる距離。
手を伸ばせば届く。

震えながら手を差し出し——
だが、触れられなかった。

指先が止まり、
空気の上で震えるだけ。

由奈の頬が、
触れられるのを待っていた。

でも隼人は……怖かった。

(触れたら、また泣かせる……
泣かせたら……俺は……)

隼人の手は、
ゆっくり、ゆっくり下へ降りていく。

その“触れられなかった事実”が、
由奈の胸に深い影を落とした。

(……触れられたくないんだ)

隼人の胸が締め付けられる。

(違う……違うんだ……!!)

叫びたいのに、言葉にならない。

雨の夜より冷たい沈黙が、
ふたりの間に落ちた。