この高校に転入してから一週間。
お弁当を食べ終えた、昼休み。
教室の隅の席で、私、霧芽 紗綾は窓の外を眺めていた。
灰色の空から降る細い雨。
校庭の奥の歩道に咲く色とりどりの傘は、静かに風に揺れていた。
左耳にだけかすかに届く、雨の音。
私の右耳はもう機能していない……。
その雨音は、昔の、中学生の頃に私を思い返させるように、胸の奥にそっと響いた。
私は中学三年生まで、音楽とともに生きていた。
けれど、ある日その道は閉ざされる。
『もう、これ以上の回復は難しいと思います』
病院の診察室で、静かに医師に告げられたその言葉。
私は諦めたように静かに頷いた。
隣りに座っていた母が声を殺して涙を流す。
けれど、私にはその音さえも聞こえなかった。
あの日、あの出来事から、私の中で音楽と生きていくという道は音もなく途切れた。
「霧芽さん、ちょっといい?」
昔のことをぼんやりと思い出していると、クラスメイトの日向 柚月さんが声をかけてきた。
「はい」
私はそう言いながら、日向さんに顔を向ける。
くりくりした目、ふんわりとなびくロングヘア。
クラスで一番明るくて、まっすぐで、どこか風のような存在。
「今日、うちの部活に見学に来ない?私、吹部なんだけど。霧芽さんまだ部活には入ってなかったよね?」
「吹部」と、単語を聞くだけで、胸がきゅっと締め付けられる。
「ごめんなさい、私、色々あって耳が殆ど聞こえないの……だから、音楽はちょっと…」
「そうだったの?それはごめんね。だけど、見学だけでも来てみない?気持ち変わるかもだし!」
「でも…」
「私、少し遅れていくから、一緒に行こう?」
「…」
「お願い」
日向さんの言葉に少し迷いながら、私は推しに負けて、小さく首を縦に振った。
放課後。
終礼が終わると、すぐに私の席まで走ってきた日向さん。
「少しだけ待って」
私は日向さんに向かってそう言うと、まだ入れていなかった荷物を鞄に詰め始めた。
キュッとチャックを閉めると、それを掴んで日向さんに「ごめんなさい、お待たせしました」と言う。
「いいよ〜、じゃあ行こう。今日の練習は通しなんだ」
日向さんはにこやかな笑顔を私に向けた。
二人で並んで廊下を歩く。
音楽室や美術室などの特別教室、部活動の活動部屋がある別棟の渡り廊下を渡っていたとき、ふとかすかな音が耳に届いた。
その瞬間、私の心はわさわさと風が吹いたように揺れた。
その曲に聞き覚えがあったからだ。
この旋律……知ってる。
忘れたくても、忘れられない。
中学三年、最後のコンクールで演奏する"はず”だった、あの曲。
中学最後のあの夏。
毎日が本番のようだった。
私はオーボエを手に、何度も何度も同じフレーズを練習した。
澄んだ音を吹くことが、私にとって自然なことだった。
難しいと思ったことは一度もなく、ただ楽しくて演奏していた。
けれど、ある日。
練習中、急に耳の奥が詰まったような感覚がして、音が遠のいた。
めまいがして、視界がぐらりと揺れる。
ドサッという音が遠くに聞こえ、鈍い痛みが走った。
それは、私がオーボエを抱えたまま、椅子から床に崩れ落ちたということを示していた。
それから、私から音楽は遠ざかった。
あの頃、強豪校からの推薦入学も決まっていた。
でも、あの日から、その未来は遠くの音のように、ぼやけていった。
今までの旋律を、今奏でられるかなんて、言われなくてもわかっていた。
自分の音を再び吹けるか、わからなかったんだ。
だから私は目を逸らした。
音楽からも、自分の未来からも。
「……今、歌ってた?」
ヒョコリと日向さんに顔を覗き込まれて、私は我に返った。
気がつけば、口元が動いていた。
オーボエのパートを、きっと無意識のうちに口ずさんでしまっていた。
「え、あ、えっと、親が演奏者でね。聴いたことがあったから、さ」
「ふーん。でもなんか、すごく自然だったよ」
「……」
探るような視線を向けてくる日向さんに、私は思わず黙り込んでしまう。
半分嘘で、半分本当。
お父さんが演奏者なのは違いないけど、この曲は私が吹いていた曲。
「懐かしそうな顔、してた。歌ってたとき」
「……私ね…中学の時吹部だったの。オーボエ吹いてた」
私は迷った末に、日向さんに教えることにした。
日向さんはその回答が意外だったのか、一度目を丸くしたあと直ぐに口を開いた。
「すごっ!あれ難しいやつだよね」
思っていなかった返事が返ってきて、私は内心驚いた。
けれど、少し何も聞いてこないでくれたことに、少し安心もした。
その心の動きを表情には出さず、「ありがとう」とだけ伝える。
「うちの部にもいるよ、オーボエ担当の先輩。一人なんだけどね」
日向さんがそう言ったちょうどいいタイミングで、オーボエのパートが目立つところからソロにはいるところに入った。
頭の中に曲の譜面が浮かび、ギュッと胸が締め付けられる。
私はそれを悟られないように、会話キャッチボールをつなげた。
気がつけば、音楽室に近づいていつの間にか音楽室の前に到着していた。
日向さんが、何のためらいもなく音楽室の扉を開けた。
その瞬間、オーボエのソロパートが耳の中に飛び込んできた。
心に響くような優しく真剣な旋律。
まるで昔の耳のようにすべての音を完璧に拾う、私の耳。
聴力が落ちた左耳だけで聴いているとは思えない、まるで両耳で聴いているかのような、力強さと音の鮮やかさ。
そして、私の視線は自然と、音を奏でるその主を探していた。
その人は、すぐに見つかった。
一人だけ動いている指、ただ一人オーボエを構える人を、人の波の中で見つけた。
この学校の吹奏楽部にたった一人のオーボエ奏者の、三年生の先輩。
私は息を呑み、その先輩の姿に釘刺しになった。
背筋を伸ばし譜面に目を落としながら、まるで音と一体になっているような、静かな佇まい。
真剣な表情、丁寧な指使い、真っ直ぐな眼差し。すべてが。
あの人……私だ。昔の、音があった、私。
中学生の頃の私がそこにいた。
音に迷いがなくて、真っ直ぐで。
ただただ「吹きたい」という正直な気持ちだけを、音に乗せていた。
再び、胸がギュッと締め付けられる。
苦しい……
ううん…苦しいより、悔しい、だ。
悔しいくらいに、この音が懐かしくて美しい。
そして、私の足は指示もしていないのに後ろに向いた。
思わず、咄嗟にといったレベルではない。
この曲を拒否するかのように、私の足はひとりでに動き出していた。
この場から逃げ出してしまいそうになったその瞬間、誰かにそっと腕を掴まれた。
「逃げないで」
この声、日向さん……。
手の温もりが、逆に私の胸が痛くなる。
思わず振り払おうとした、その時、また日向さんの声がした。
「耳が殆ど聴こえなくても、かすかに聴こえる音はかならずあるはず。その音はきっと……心で聴くものだから、逃げようとしないでよ。向き合おうよ、音楽に」
私は目を見開いて、日向さんの方を振り返った。
さっきは痛かった手の温もりが、じんわりと伝わって、今度は私の心を優しく包んだ。
胸の奥で何かが鳴る。
「……私、もう音楽とかかわらないって、決めたからっ」
絞り出してそう言った私の声はかすれて、楽器の音にかき消されるほど小さかった。
けれど、日向さんは静かに微笑んだ。
その笑みは、私の心の叫びがあの声とともに、日向さんに届いたように思えた。
「でも、あのオーボエの音色を聴いたときの霧芽さん、すごく綺麗で素敵だったよ」
「……」
優しい眼差し。
「なんていうか、音はまだ霧芽さんの中で、まだ生きているって思った」
何も言えなかった。
ただ、胸の奥で、確かに何かが鳴り響いていた。
それは、あの日からずっと私の底に沈んでいた音。
もう二度と響かないと思っていた、私だけの音だった。
そして、音楽室の中を見つめた。
曲はもう終わりに差し掛かってる。
あの音の中に、まだ私の居場所があるかなんてわからない。
でも、
――もう、一度吹いてみたい
そう思った。
胸に響く私の音は、この曲と一緒に消えてしまいそうに思えた。
そして、この灯された火が消えないように、音楽室へそっと一歩を踏み出した。
お弁当を食べ終えた、昼休み。
教室の隅の席で、私、霧芽 紗綾は窓の外を眺めていた。
灰色の空から降る細い雨。
校庭の奥の歩道に咲く色とりどりの傘は、静かに風に揺れていた。
左耳にだけかすかに届く、雨の音。
私の右耳はもう機能していない……。
その雨音は、昔の、中学生の頃に私を思い返させるように、胸の奥にそっと響いた。
私は中学三年生まで、音楽とともに生きていた。
けれど、ある日その道は閉ざされる。
『もう、これ以上の回復は難しいと思います』
病院の診察室で、静かに医師に告げられたその言葉。
私は諦めたように静かに頷いた。
隣りに座っていた母が声を殺して涙を流す。
けれど、私にはその音さえも聞こえなかった。
あの日、あの出来事から、私の中で音楽と生きていくという道は音もなく途切れた。
「霧芽さん、ちょっといい?」
昔のことをぼんやりと思い出していると、クラスメイトの日向 柚月さんが声をかけてきた。
「はい」
私はそう言いながら、日向さんに顔を向ける。
くりくりした目、ふんわりとなびくロングヘア。
クラスで一番明るくて、まっすぐで、どこか風のような存在。
「今日、うちの部活に見学に来ない?私、吹部なんだけど。霧芽さんまだ部活には入ってなかったよね?」
「吹部」と、単語を聞くだけで、胸がきゅっと締め付けられる。
「ごめんなさい、私、色々あって耳が殆ど聞こえないの……だから、音楽はちょっと…」
「そうだったの?それはごめんね。だけど、見学だけでも来てみない?気持ち変わるかもだし!」
「でも…」
「私、少し遅れていくから、一緒に行こう?」
「…」
「お願い」
日向さんの言葉に少し迷いながら、私は推しに負けて、小さく首を縦に振った。
放課後。
終礼が終わると、すぐに私の席まで走ってきた日向さん。
「少しだけ待って」
私は日向さんに向かってそう言うと、まだ入れていなかった荷物を鞄に詰め始めた。
キュッとチャックを閉めると、それを掴んで日向さんに「ごめんなさい、お待たせしました」と言う。
「いいよ〜、じゃあ行こう。今日の練習は通しなんだ」
日向さんはにこやかな笑顔を私に向けた。
二人で並んで廊下を歩く。
音楽室や美術室などの特別教室、部活動の活動部屋がある別棟の渡り廊下を渡っていたとき、ふとかすかな音が耳に届いた。
その瞬間、私の心はわさわさと風が吹いたように揺れた。
その曲に聞き覚えがあったからだ。
この旋律……知ってる。
忘れたくても、忘れられない。
中学三年、最後のコンクールで演奏する"はず”だった、あの曲。
中学最後のあの夏。
毎日が本番のようだった。
私はオーボエを手に、何度も何度も同じフレーズを練習した。
澄んだ音を吹くことが、私にとって自然なことだった。
難しいと思ったことは一度もなく、ただ楽しくて演奏していた。
けれど、ある日。
練習中、急に耳の奥が詰まったような感覚がして、音が遠のいた。
めまいがして、視界がぐらりと揺れる。
ドサッという音が遠くに聞こえ、鈍い痛みが走った。
それは、私がオーボエを抱えたまま、椅子から床に崩れ落ちたということを示していた。
それから、私から音楽は遠ざかった。
あの頃、強豪校からの推薦入学も決まっていた。
でも、あの日から、その未来は遠くの音のように、ぼやけていった。
今までの旋律を、今奏でられるかなんて、言われなくてもわかっていた。
自分の音を再び吹けるか、わからなかったんだ。
だから私は目を逸らした。
音楽からも、自分の未来からも。
「……今、歌ってた?」
ヒョコリと日向さんに顔を覗き込まれて、私は我に返った。
気がつけば、口元が動いていた。
オーボエのパートを、きっと無意識のうちに口ずさんでしまっていた。
「え、あ、えっと、親が演奏者でね。聴いたことがあったから、さ」
「ふーん。でもなんか、すごく自然だったよ」
「……」
探るような視線を向けてくる日向さんに、私は思わず黙り込んでしまう。
半分嘘で、半分本当。
お父さんが演奏者なのは違いないけど、この曲は私が吹いていた曲。
「懐かしそうな顔、してた。歌ってたとき」
「……私ね…中学の時吹部だったの。オーボエ吹いてた」
私は迷った末に、日向さんに教えることにした。
日向さんはその回答が意外だったのか、一度目を丸くしたあと直ぐに口を開いた。
「すごっ!あれ難しいやつだよね」
思っていなかった返事が返ってきて、私は内心驚いた。
けれど、少し何も聞いてこないでくれたことに、少し安心もした。
その心の動きを表情には出さず、「ありがとう」とだけ伝える。
「うちの部にもいるよ、オーボエ担当の先輩。一人なんだけどね」
日向さんがそう言ったちょうどいいタイミングで、オーボエのパートが目立つところからソロにはいるところに入った。
頭の中に曲の譜面が浮かび、ギュッと胸が締め付けられる。
私はそれを悟られないように、会話キャッチボールをつなげた。
気がつけば、音楽室に近づいていつの間にか音楽室の前に到着していた。
日向さんが、何のためらいもなく音楽室の扉を開けた。
その瞬間、オーボエのソロパートが耳の中に飛び込んできた。
心に響くような優しく真剣な旋律。
まるで昔の耳のようにすべての音を完璧に拾う、私の耳。
聴力が落ちた左耳だけで聴いているとは思えない、まるで両耳で聴いているかのような、力強さと音の鮮やかさ。
そして、私の視線は自然と、音を奏でるその主を探していた。
その人は、すぐに見つかった。
一人だけ動いている指、ただ一人オーボエを構える人を、人の波の中で見つけた。
この学校の吹奏楽部にたった一人のオーボエ奏者の、三年生の先輩。
私は息を呑み、その先輩の姿に釘刺しになった。
背筋を伸ばし譜面に目を落としながら、まるで音と一体になっているような、静かな佇まい。
真剣な表情、丁寧な指使い、真っ直ぐな眼差し。すべてが。
あの人……私だ。昔の、音があった、私。
中学生の頃の私がそこにいた。
音に迷いがなくて、真っ直ぐで。
ただただ「吹きたい」という正直な気持ちだけを、音に乗せていた。
再び、胸がギュッと締め付けられる。
苦しい……
ううん…苦しいより、悔しい、だ。
悔しいくらいに、この音が懐かしくて美しい。
そして、私の足は指示もしていないのに後ろに向いた。
思わず、咄嗟にといったレベルではない。
この曲を拒否するかのように、私の足はひとりでに動き出していた。
この場から逃げ出してしまいそうになったその瞬間、誰かにそっと腕を掴まれた。
「逃げないで」
この声、日向さん……。
手の温もりが、逆に私の胸が痛くなる。
思わず振り払おうとした、その時、また日向さんの声がした。
「耳が殆ど聴こえなくても、かすかに聴こえる音はかならずあるはず。その音はきっと……心で聴くものだから、逃げようとしないでよ。向き合おうよ、音楽に」
私は目を見開いて、日向さんの方を振り返った。
さっきは痛かった手の温もりが、じんわりと伝わって、今度は私の心を優しく包んだ。
胸の奥で何かが鳴る。
「……私、もう音楽とかかわらないって、決めたからっ」
絞り出してそう言った私の声はかすれて、楽器の音にかき消されるほど小さかった。
けれど、日向さんは静かに微笑んだ。
その笑みは、私の心の叫びがあの声とともに、日向さんに届いたように思えた。
「でも、あのオーボエの音色を聴いたときの霧芽さん、すごく綺麗で素敵だったよ」
「……」
優しい眼差し。
「なんていうか、音はまだ霧芽さんの中で、まだ生きているって思った」
何も言えなかった。
ただ、胸の奥で、確かに何かが鳴り響いていた。
それは、あの日からずっと私の底に沈んでいた音。
もう二度と響かないと思っていた、私だけの音だった。
そして、音楽室の中を見つめた。
曲はもう終わりに差し掛かってる。
あの音の中に、まだ私の居場所があるかなんてわからない。
でも、
――もう、一度吹いてみたい
そう思った。
胸に響く私の音は、この曲と一緒に消えてしまいそうに思えた。
そして、この灯された火が消えないように、音楽室へそっと一歩を踏み出した。



