笑いましょう、貴方がいない場所で。

 婚約者ホレイシオ・タッチェルは私の初恋の人でした。
 幼い頃から婚約を結んでいた私達は顔を合わせる事も多く、共に過ごす時が増えていくにつれて、異性であるホレイシオの勇ましさや私とは違う自身に満ちたその姿に惹かれていきました。

 十五になるまで――学園に入るまでの私達は平穏な時を過ごしました。
 しかし学園に入ったホレイシオの心は別の女性へ移ります。
 ……いえ、ホレイシオはそもそも、私の事を恋慕の相手としては見ていなかったと思いますから、移るという言葉は正しくないかもしれません。

 彼はイヴェット・パージター伯爵令嬢に恋をしました。
 侯爵家の生まれである私達に比べて政治的な力も小さい彼女の家ですが、彼はそんな理屈よりも感情で動くようになったのです。

 彼は私と顔を合わせる時間を減らす代わりに、イヴェットと共にいる時間を増やしていきます。
 そんなある日でした。
 私はとある病に罹ります。

 この国は長年、最北の地を巨龍に支配されていました。
 それが放つ瘴気は時に人を病に侵させ――私の病も、この瘴気によるものでした。
 一度龍の瘴気に侵されれば、人の手では治すことが出来ません。
 瘴気に含まれた毒性は巨龍が生き続ける限り消える事はありませんでしたから。
 そして今の人類は魔法や剣――多くの知識と技術を以てしても龍に打ち勝つことが出来ませんでした。
 つまり、回復の見込みはないという事です。

 この病は体を内側から徐々に犯していき、最後には灰となって崩れて消えてしまう病でした。
 風邪を強めたような症状が頻繁に現れますし、何より常に全身の肉と骨が握りつぶされるような痛みを持つのです。
 しかし治る余地がないのに一人で部屋に引き籠るというのは、余りに寂しく、何より死の足音が聞こえてきそうな静寂に気を狂わせてしまいそうでした
 ですから私は体の調子が良い時は学園へ行き、残された時間を誰かとの思い出で埋めようと考えました。
 病とは言いましたが、瘴気による影響は人から人に移る事はありません。
 学友は皆、私を邪険にはしませんでした。……気を遣わせてはしまったかもしれませんが。

 さて、病に罹ってから半年が経った頃。
 学園へ足を運ぶ頻度も大きく減った私をホレイシオは裏庭へ呼びつけました。
 この頃にはもう、彼は見舞いの一つにすらやって来ませんでしたから、私達が顔を合わせられる場は学園くらいとなっていました。

「お前との婚約を破棄する」

 顔を合わせてすぐ。彼はそう言いました。
 初め、何を言われたのかが理解できませんでした。
 唖然とする私へホレイシオは続けます。

「俺はイヴェットと婚約する」

 その顔には安堵と自信が見え隠れしていました。
 きっと彼は、私との婚約を破棄できる機会を窺っていたのでしょう。
 しかし社交界における私の評価は高く、家柄も問題ない以上、身勝手に婚約破棄を付きつければ誰もが『浮気相手に乗り換えるつもりだ』とホレイシオを非難します。
 しかし。

「世継ぎも産めない婚約者では意味がない」

 そう。
 病に侵された私の体では子供は産めない。
 貴族として、世継ぎを求める事は当然の事ですから、彼の主張は正しいものでした。
 彼は、イヴェットに乗り換える為の正当な理由を手に入れたのでした。

 もうすぐ死ぬだろう、と暗に言われてしまえば、私は何も言うことが出来ません。
 せめて……せめて、私が死ぬまで待っていてくれれば。
 そうすれば、捨てられた悲しみを覚える事もなかったのに。
 そんな怒りに似た感情も湧きましたが、私はそれを胸の奥にしまい込みました。

「畏まりました。……どうか、お幸せに」

 深く頭を下げる私を見て、ホレイシオはふんと鼻を鳴らしました。
 それから何を言う事もなく、足早に私の元を離れます。

「あ、ホレイシオ!」
「イヴェット……! 終わったぞ」
「本当? あ、ねぇ。今日のパーティーなんだけど……」

 離れた場所からそんな声が聞こえてきました。
 ホレイシオの声は、酷く沈んだ私の心とは打って変わって、とても明るいものでした。
 二人の会話が遠ざかり、その場には静寂が訪れます。

 私は暫くの間、ぼんやりと裏庭の景色を見ていました。
 それから、はらはらと涙が零れ落ちます。

 好きで病になど罹った訳ではないのに、何故このような思いをしなければならないのか。
 そんなやるせない思いに打ちひしがれました。
 その時です。

「おわぁっ!」

 がさがさという激しい音と共に目の前の木が大きく揺れ――枝の中から男子生徒が姿を現しました。
 彼は足を枝に引っ掛けたまま逆さにぶら下がっていました。

 突然姿を見せた彼に驚き、声も出せずにいると、黄緑の瞳と目が合いました。
 彼はぎこちない笑みを浮かべます。

 私は自分が泣いている間、目の前を通って木をよじ登る人の姿などは勿論見ておりませんから、彼は私やホレイシオが裏庭へやって来るよりも前からこの場にいたことになります。
 つまり、私が婚約を破棄されるところも目撃していたのでしょう。

「あー……悪い」
「い、い、いえ……」

 金髪に黄緑の瞳を持つ見目麗しい男性を、私は存じ上げておりました。
 辺境伯家次男のレスター・ウィールライト様。
 何故高貴なお方が木によじ登り、今宙吊りになっているかはわかりませんが、彼は剣術に優れてはいても勉学は疎かにしがちだという噂を耳に挟んだ事があるので、もしかしたら前の授業からここで身を潜めていたのかもしれません。

 レスター様は枝の上で器用に上半身を起こして体勢を整えてから、地面へ降り立ちます。

「使うか?」

 彼は私の前に膝をつくと、ハンカチを差し出します。
 その佇まいはお伽噺に現れるような王子様そのものでした。
 ただ……残念なことに、先程逆さになっていた彼の髪は乱れていたし、美しい金髪にはいくつもの葉が絡まっていました。
 何ともちぐはぐな様子です。

「い、いえ、お気遣いありがとうございます……」

 私の視線は自然と、レスター様の頭へと向けられます。
 目が合わない事を不思議に思ったのか、彼は瞬きを繰り返してから自分の頭を触りました。

「あっ」

 そして自分の状態に気付き、慌てて葉を払い除けるのですが、その様子も何だか高貴な立場の方にしては俗っぽいようなものでしたから、彼の美しい容姿から生まれる印象との差に私は思わず吹き出してしまいました。

「ふっ、ふふ……っ、すみません、失礼いたします」

 私は笑いながら、彼の頭に手を伸ばします。
 彼の頭にはまだ、葉が一枚残されていたのです。

「え、まだついてるか?」
「もうついていません。ふふっ」

 笑っている私を見た彼は数度瞬きをした後、つられて笑い出します。
 それから、私の濡れていた頬に自分のハンカチを押し当ててくれました。

「よかった。止まったか」

 彼の言葉で私は漸く、自分が見苦しい姿を見せていた事を思い出します。

「も、申し訳ありません。このような姿を」
「気にしなくていい。あんな言い草、誰だって傷付くだろうしなぁ」

 彼はそう言うとハンカチをしまってから私に手を差しだしました。

「顔色が悪いのは病のせいだろう? 医務室まで送ろう。セリーナ・イーストン嬢」

 瘴気による病を発症する者は多くはない。
 故に私の名は学園でも広まりつつありましたし、彼が私の名前を知っていたのもそのような理由であったのでしょう。



 これが、私の人生を大きく変えたレスターとの出会いでした。
 医務室へ向かうまでの間、私達は他愛もない話をしました。
 彼は気さくで快活で、お喋りな人でした。

 何故木に登っていたのかと問えば、案の定授業をずる休みしていたと言います。

「細かい字を見るとどうにも集中できないんだよなぁ。嫡男だったら家を潰していたかもしれない」
「ん、ふふっ」

 冗談めかしに次々と飛ぶ言葉はどれも私には新鮮で、彼の話を聞くのはとても楽しいと感じました。
 とはいえ授業を休む事は褒められた事ではないので、私は裏庭で気遣っていただいた礼にと、勉学において彼が苦手としている箇所を教える事を提案しました。
 既に単位を落とす不安を抱えていたという彼はその提案を嬉々としてのみ――それからの学園生活は、彼と共に過ごす時間が圧倒的に多くなりました。

 彼は驚く程苦手分野が多かったですし、私も私で、学園へ通える日が数えられる程度にまで減っていましたから。
 勉学は出来ないと話していたレスターは確かに最初、勉強に苦戦している様子を多々見せました。
 けれど、そもそもの地頭がよかったのでしょう。
 私がコツを教えれば彼はするすると成績を上げていきました。

 しかしその勉強会も、私が体調を崩す事で中断する事も少なくはありませんでした。
 私の咳が止まらなかったり、体の痛みに耐えられなくなったとき、レスターは決まって私を医務室まで運んでくれました。
 それから私が眠りに就くまで、普段と変わらない調子で話し掛けてくれるのです。

 そんなある日の事。

「最近あまり学園に来ていないけど、調子が悪いのか」
「そうね。……行きたい気持ちはあるのだけど。ごめんなさい」
「いやいや、そこは気にするなよ。お陰で単位の心配もなくなったしさ。ただ」

 そこで彼ははたと言葉を止める。
 そして顎を撫で、何かを考えるようにぶつぶつと呟き始めました。
 私はそれを横目に見ながら、彼が用意してくれた白湯に口を付ける。
 その時でした。

「婚約するか? 俺達」

 白湯を飲み下そうとした機会を狙ったかのように繰り出された、脈絡のない言葉。
 私は淑女として絶対に許されない失態を防ぐべく片手で口を強く押さえこみました。
 そして何とか喉奥へ流し込み、いくつか咳をしてから彼を見ました。

「今、何て?」
「いや、婚約」
「私が白湯を一口飲むだけの間に一体何を考えてそんな結論に至ったのか、聞かせてもらってもいいかな……?」

 動揺している私を見て面白がっているのか、レスターが声を上げて笑いました。
 彼は私の顔を覗き込みます。

「いや、学園で勉強を教えてもらえないなら、見舞いって体でそっちの家に行けば教えてもらえるかなって」
「病人に過労を強いるつもりなんだ」
「でも、ただの友人が異性の家に定期的に足を運ぶとお互いにとって良くない噂も流れるかもしれない」

 じとりと睨む私の言葉を華麗に聞き流し、彼は自分の意見を主張しました。
 正直、彼の申し出をとても嬉しいと感じてしまう自分はいました。
 彼と過ごす内に、私の心は彼へと傾いていましたから。
 しかし同時に、ホレイシオに婚約破棄をされた時の言葉が過ります。

 私はいつか命を落とす身。彼と婚姻したとしても子を残すことが出来ない。
 嫡男ではないとしても彼が分家を立てるなり、私の家に婿入りするなりすればどの道子は必要になります。
 それに、一度婚姻すれば新たな結婚相手を見つけるハードルも上がる。
 レスターからすれば余りにリスクのある選択でした。

 故に、私は自分の心に従うことが出来ず、頷けませんでした。
 するとレスターは私の髪を一房指で掬い上げ、遊びながら言いました。

「……一人でいるのは寂しいだろ?」

 酷く優しくて、温かい言葉でした。
 私の心の奥深くに触れ、悟り、寄り添ってくれる声。
 その言葉を聞いた途端、私の瞳から涙が溢れました。

「泣き虫だなぁ」

 そんな風に笑いながら私の頬を撫でる手はとても優しいものでした。



 それから私達は婚約し、パーティーへも何度か共に出席しました。
 レスターは私が学園を休むと必ず見舞いに来てくれました。
 勿論、勉強を教えろなどという強要はしません。そもそも彼はすでに、自力で成績の上位を維持する程度の学力を身に付けていましたから、婚約を提案する上でのこじつけでしかなかったのでしょう。

 それからすぐに私の容態は悪化し、私は学園へ通うことが出来なくなりました。
 卒業が近づいた時期でした。

「セリーナ」

 レスターが、ベッドの脇から私の名前を呼びます。
 すっかりこけた頬を撫でるその手は大きくて温かくて、そしてやはり優しくて。
 私は甘えるようにその手に擦り寄りました。

「……ごめんなさい」
「一体俺は何を謝られてるんだ? 前の試験なら十位だったし、今日来たのだって俺がお前に会いたかったからなのに」

 何を? と聞かれれば、確かに自分は何に対して謝りたいのかと疑問を抱きます。
 自分の頭を整理するように、私は掠れた声で呟きました。

「たぶん、卒業パーティーには出席できないから……貴方と踊る事は出来ないし…………それに、きっと……けっこんも、できない」
「セリーナ」

 話している途中から涙がこみあげてきました。
 私はそこで漸く、自分は彼に謝りたかったのではなく、望んだ事をろくに叶える事も出来ない自分の胸の痛みを彼に聞いて欲しかったのだと気付きました。

 レスターが私を優しく抱き寄せます。
 こういう時、気にしなくていいだとか、そういう言葉を彼は使いません。
 私が許しを求めている訳でも、レスターを気遣って発言した訳ではないことも気付いているのです。
 そして私が本当に求めている事だけを器用に掬い上げて、気持ちに応えてくれるのでした。

 私はレスターの胸の中で下手くそな嗚咽を絞り出して泣きじゃくりました。

「よーっしゃっしゃっしゃ」

 それから私の気持ちが落ち着き始めると、彼は私の頭を雑に撫で回して笑いました。
 この揶揄うような動きだって、私が気まずさや罪悪感を覚えない為のものでした。

「わたし、猫じゃないわ」
「馬鹿にしてるのか? 俺の婚約者は猫よりずっと可愛いだろ」
「っ、ふふ」

 可愛いと言うのは、私はあまりにも貧相な体をしていたのですが。
 それでも彼は一切の迷いなくそう言ってくれました。



 それから私は意識がはっきりしている事が減って生きました。
 近くに家族やレスターが居てくれて、声を掛けてくれている事はわかるのに、なんと言っているのかはよくわからないのです。
 痛みや熱以外の感覚が曖昧で、そろそろ終わりが近づいてきているのかもしれないと私は思いました。

 そんな苦痛と寂しさの狭間で流した涙は誰かに拭われます。
 いえ。それが誰の手かなんて、わかりきっています。
 こんな時に私の涙を拭ってくれるのは、いつだって一人しかいませんから。

「セリーナ」

 この時だけは何故か、声が鮮明に聞こえました。

「結婚しような」

 何を今更。
 出来ない事など互いに分かり切っているというのに。
 そう思いましたが、彼の声は冗談のようでも、私を慰めるようなものでもありませんでした。

「病が治ったら、結婚しよう。それで今まで我慢してきたことを沢山して……幸せになるんだ」

 彼の声は少しだけ震えているように思えました。
 もし泣いているのなら、その頬に手を伸ばして涙を拭ってあげたい。
 そう思うのに体は動きません。

「約束だ」

 代わりに彼は私の小指に自分の小指を絡めました。



 この後、どれくらいの時間が経ったのかはわかりません。
 次に意識がはっきりとした時。
 私は使用人から学園の卒業パーティーが終わった事、そして卒業前からレスターが見舞いに来なくなったことを聞きました。

 寂しさを覚えましたが、彼に限って今更別の異性の元へ流れる事も、意味もなく私を放る事もないだろうと思っていました。
 だから彼には彼の事情があるのだろうと、私は思う事にしました。
 ……本当はとても悲しかったのだけれど。

 それから私はまた現と夢の狭間を行き来するように時間を過ごします。
 家族が泣きじゃくる声を聞く時が増え、医者にそろそろだとでも言われたのだろうかと思っていました。
 レスターの声はやはり聞こえませんでした。
 仕方がないので、私は記憶の中の彼の姿を思い浮かべました。
 二人で笑い合った日々を思い出せば、自然と心が軽くなるようでした。お陰で死への恐怖は、殆どありません。

 そうして幸せな夢を描きながら、私の意識はゆっくりと、着実に、深い所まで沈んでいき――


***


 ――はたと、目が覚めました。

 見慣れた天井を見つめながら、私はすぐに異変に気付きます。
 体が軽いのです。
 縫い付けられたかのように動かなかった瞼は何度だって瞬きをしますし、顔に触れる空気は涼しさを感じます。
 両腕だって持ち上げれば自分の意図したとおりの動きをしますし、呼吸だって深く繰り返すことが出来ます。

「……いき、てる?」

 そう、私が呟いた時。
 ガタンという音と共に、近くにいた使用人が持っていた桶を落としました。

「あ」

 驚く私と使用人。
 僅かな間があった後。使用人は取り乱しながら廊下へ駆け出し、私が目を覚ましたことを報告して回りました。

 家族や使用人達は涙を流して私の回復を喜びました。
 彼らと共に喜びを分かち合い、少しだけ涙を流して会話をする。
 そして、皆が冷静に話ができるようになった頃合いで、父から私の病が完治した旨を聞かされました。

 何でも、此度結成された騎士団が巨龍の討伐に成功したとの事。

 父は続けました。

 平民も貴族も関係なく、腕利きの戦士達で構成された騎士団。
 その中で巨龍の首を落としたのは――


***


 目を覚ましてから一週間が経った頃。
 開け放たれた窓から流れる風をベッドの上で感じていると、バタバタという忙しない足音が廊下から聞こえます。
 そしてバン! と大きな音とともに開け放たれる扉。

 そこには騎士団の制服に身を包んだ男――レスターが居ました。

「上位貴族にもかかわらず人の家で走り回るなんて人、きっと貴方くらいね」
「セ、リーナ……」

 肩で息をする彼は暫くの間その場で立ち尽くします。

「おはよう。レスター」

 レスターは返事をしませんでした。
 代わりに驚いた表情を貼り付けたまま、ふらふらと覚束ない足取りで私へ近づきます。
 それから、薄い陶器に触れるような、誤って壊さないようにという気遣いを感じさせるような手つきで私の頬を撫でました。

「苦しくはないか?」
「全然。誰かさんのおかげで」
「痛いところは?」
「全く」
「違和感とか、どこか動かないところとか」
「だからないって言ってるのに」

 頬から肩、腕……とにかく異変を疑って触れてくる彼に、私は呆れながら溜息を吐く。
 それから、ぺたぺたと触る彼の手を掴まえて正面まで持っていきました。

 私の体のあちらこちらへ泳いでいた視線は漸くそこで私の顔を捉えます。
 目が合って、私は優しく微笑みかけました。

 瞬間。こちらを映した瞳が大きく揺らぎ、彼は私の体を抱き寄せました。

「セリーナ」
「……うん」

 彼は一度だけ私の名前を呼びました。
 その声は震えていて、きっとその後は言葉にならなかったのでしょう。
 静かに震える息遣いを感じながら、私は彼の腕の中で静かに涙を流しました。



「驚いたわ。目が覚めたら婚約者が国の英雄になってたのだから」
「何もせずにいられなかっただけだ。セリーナを救える可能性が少しでもあるなら、それに賭けたかった」
「国民は別の意味で驚いたと思うの。一番話題の英雄は凱旋の列にも、王宮での表彰にも参加せずどこかへすっ飛んでいってしまったのだから」
「居ても立っても居られなくて……」

 私とレスターは隣り合うようにベッドへ腰を下ろして話をします。
 巨龍を倒したという報せはいち早く国へ広まり、今日、騎士団が戻って来るという話も私は聞いていました。
 そして……彼はきっと何よりも先に私の元に駆け付けるだろうと悟ってもいました。
 私がそれを指摘すれば、やはり図星だったらしく、レスターは頬を掻いて苦く笑いました。

「正直、功績とかそんなのはどうでもいいんだ」
「知ってるわ。学園の時から、上位貴族にしては飾らなさすぎだったし」
「それなぁ。兄貴なんかにはよく怒られるんだよなぁ」

 それから互いの言葉は途切れ。
 代わりにレスターの指先が私の手に添えられます。

「セリーナ」

 彼は咳払いを一つすると、私の手を取ったまま目の前に跪きました。

「俺と結婚してくれ」

 真剣な面持ちでありながらも、耳の端が赤く染まっている彼はやはり、どこか格好がつけ切らない。
 けれど、そんな彼だから――私は愛したのでしょう。

「……よろこんで」


***


 その後。レスターは改めて王宮へ呼ばれ、長きに渡る国の悲願を達成した功労者として、公爵としての爵位と莫大な富、領地を与えられました。
 家は兄が継ぐから、経営については考えなくてもいいのだなどと高を括っていた彼は突然大貴族となり、領地経営に着手せねばならず――誰よりもおったまげていました。

 当然一人ではどうにかできる気がしないと彼は私に泣きつき、私達は婚姻を結ぶとすぐに領地経営へ取り掛かりました。
 慌ただしい日々のお陰で、式を挙げたのはそれから一年経った頃。
 レスターは申し訳なさそうにしていましたが、私にとっては忙しない結婚生活も、幸せにあふれた結婚式も、心を満たす要因でしかありませんでした。

 やがて私達は娘を授かりました。
 そして、娘が初めて出席するパーティーでの事。

 娘のアラーナは初めての人混みに慣れておらず、人の流れに呑まれていきます。
 それを見て慌てて追いかけに行くレスター。微笑ましく思いながら二人の様子を見ていたその時でした。

「あ」

 後ろから声が聞こえました。
 振り返れば、そこには――ホレイシオがいました。
 しかし彼の姿は記憶の中の姿から随分と変わり果てていました。
 顔色は悪く、痩せこけていて、着ている服も色褪せているようなものでした。

 学園を卒業した後の彼の噂は、社交界で耳にした事がありました。
 イヴェットと結婚し、侯爵家を継いだ彼でしたが、イヴェットが私欲の為に多額の借金を背負ったことがきっかけとなり、家は没落寸前まで追い込まれているようでした。
 彼は私の名を呼ぼうと口を動かします。

 彼が何と言おうとしているのか、私は察していました。
 それに元婚約者という近しかった間柄の人間。
 そんな人物が今や国一番の貴族の妻となったのです。
 彼は思ったでしょう。
 『彼女に頼み込めば、助けてくれるかも』と。
 事実、私の家は傾いた家一つを立て直すには充分過ぎる財がありましたから。

 しかしその言葉は、一つの純粋で無垢な声によって遮られます。

「お母様ぁ!」

 アラーナです。
 彼女は父であるレスターに一度捕まったものの、すぐにその腕を擦り抜けて私の元へ駆け寄ってきたのでした。
 勢いよく飛びつくお転婆な娘を私は抱き留めます。

「もう、アラーナ。あんまりお転婆にしていると、もう連れて来られなくなっちゃうわ」
「ごめんなさぁい」

 愛しい我が子を窘めてから、その小さな手を繋ぎます。
 少し離れた場所ではレスターが私達に手を振っていました。
 アラーナは父に手を振り、そこまで私を導こうとしました。
 しかし一歩踏み出すより先、彼女は自分達を見つめる視線に気付きます。
 アラーナは不思議そうに目を丸くし、首を傾げてホレイシオを見ました。

「だぁれ?」

 ホレイシオが身をかたくしました。何と言おうかと悩んでいるようです。
 そんな彼の言葉を待たずして、私は答えました。

「……知らない人よ」

 さぁ、行きましょうと、私はアラーナの手を引きます。
 視線を逸らす瞬間、私は彼へ微笑みを返しました。

 『さようなら』という言葉を含んで。



 初恋が終わってから、私はある真実に気付いていました。
 彼は女性である私が自分より勉学に優れ、賞賛されている事に嫌悪していたのです。
 彼の自信の高さは同時にプライドの高さに直結していましたから。

 そんな彼が私より優位に立てたもの。
 それが恋心を抱く私との精神的な優位性と、そして命の長さでした。

 だから彼は敢えて私の寿命の話に触れ、婚約破棄を宣言したのです。
 傷付く私を見て安心する為に。
 けれど結果は……見ての通りです。



 さようなら、ホレイシオ。
 貴方が見限った命は息を吹き返し、そして今、最も幸せな生を歩んでいます。
 ――貴方がいない世界で。



 その日を最後に、ホレイシオは社交界から姿を消しました。


***


 暖かな日差しの下に広がる花畑。
 風に撫でられながら目を細める先では、アラーナが転げ回っています。

「ああ、もう。泥だらけになるわ。……一体、貴族らしくないところは誰に似たんだか」
「好きにさせてやれよ。楽しそうだろ」
「そうはいっても、貴方みたいなやんちゃにでも育ったら――」

 隣で暢気に見守っているレスターを睨めば、彼の顔が迫ります。
 あっという間に唇を奪われ、うっかり絆されそうになりました。

「もう」

 その時です。
 遊んでいたアラーナが足をも連れさせて転倒し、大きな泣き声を上げました。

「おわーっ! 大丈夫かぁ、アラーナ」
「ほら、言った傍から!」

 子供らしく元気に泣くアラーナと、慌てふためきながら走り出すレスターの後ろ姿。
 あまりにも平穏そのものな光景に私は目を奪われました。

 そして、ああ、と声が漏れ……

「――なんて幸せなの」

 その声は、穏やかな風に運ばれて消えていくのでした。