恋のリハーサルは本番です

公演が終わった夜の劇場は、昼間の熱気が嘘のように静まり返っていた。
客席には誰もいない。
残っているのは、舞台の残り香と、人の感情だけ。

あかりは、舞台中央を見上げていた。

(……ここで、蓮さんは立ってる)

照明の位置、立ち位置、動線。
頭では把握しているはずなのに、今は妙に現実味があった。

「……まだ残ってたんだ」

背後から声がして、あかりは振り返る。

桜井蓮だった。

稽古着に着替えた姿。
舞台の上とは違い、どこか疲れと迷いを滲ませている。

「蓮さん……お疲れさまです」

「あかりさんも」

二人の間に、微妙な沈黙が落ちる。

話したいことは、山ほどある。
でも、どれも“言ってはいけない気がする”言葉ばかりだった。




「……今日の舞台、どうでした?」

先に口を開いたのは、あかりだった。

脚本家としての問い。
安全な距離を保つための言葉。

「……正直に言っていいですか」

蓮の声は低かった。

「はい」

「……怖かったです」

あかりは息を呑む。

「芝居が、じゃない。
 自分の気持ちが」

蓮は舞台を見つめたまま続ける。

「ここに立つと、嘘がつけなくなる。
 役の言葉なのに、自分の本音が混ざる」

「それが……観客に伝わるのが、怖い」

あかりは、胸が締め付けられるのを感じた。

(それ、私も……同じだ)

台本を書きながら、
書いているはずの“役”が、いつの間にか自分自身になっている。



「……それって」

あかりは、言葉を選びながら続けた。

「役者として、すごく正しいことだと思います」

蓮は、苦笑する。

「脚本家らしい答えですね」

「……今は、それでしか話せないから」

あかりの視線が、足元に落ちる。

「私、線を引いてるんです」

蓮が、静かにあかりを見る。

「脚本家だから。
 現場の人間だけど、舞台の上には立たないから」

「だから……踏み込みすぎちゃいけないって」

その声は、少し震えていた。

蓮は、しばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐く。

「……俺も同じです」

「役者だから。
 台本を書いてくれた人の心に、勝手に入っちゃいけないって」

二人は、同時に気づく。

同じ場所で、同じ言い訳をしていたことに。



そのとき、遠くから足音が響いた。

「あれ、まだいたんだ」

高峰翔が、楽屋側から現れる。

「……邪魔だった?」

「いえ」

二人は、ほぼ同時に答えてしまい、気まずくなる。

翔は、その様子を見て軽く笑った。

「相変わらず、息ぴったりだね」

その言葉が、微妙に胸に刺さる。

翔は、蓮に向き直る。

「桜井。今日の芝居、良かった」

「……ありがとうございます」

「でも」

翔は、あかりを見る。

「この人の書いた言葉に、引っ張られすぎだ」

一瞬、空気が張り詰める。

「脚本に恋するのはいい。
 でも──脚本家本人から、目を逸らすなよ」

その言葉に、蓮の心臓が跳ねた。

あかりも、思わず翔を見る。

「翔さん……」

翔は肩をすくめる。

「忠告。
 役者としても、男としても」

それだけ言うと、踵を返した。

「じゃ。明日もあるんだから、早く帰りな」

残された二人の間に、再び沈黙。




「あかりさん」

蓮が、静かに名前を呼ぶ。

「……はい」

「もし、この舞台が終わったら」

一瞬、言葉に詰まる。

「そのときは……
 役とか、立場とか、全部抜きで」

そこまで言って、蓮は言葉を止めた。

踏み込めない。
でも、戻れもしない。

あかりは、小さく微笑んだ。

「……その続きを言うのは、舞台が終わってからにしましょう」

優しいけれど、逃げでもある言葉。

「今は、お互い……この舞台を、ちゃんと終わらせる」

蓮は、ゆっくり頷いた。

「……はい」


舞台の灯りは消えているのに、
二人の胸の中だけが、静かに熱を帯びていた。

境界線は、まだ越えられない。

けれど──
そこに立っていることを、もう否定できなくなっていた。