恋のリハーサルは本番です

舞台は再び明かりを浴び、物語は何事もなかったかのように進んでいく。



観客の笑い声。

拍手。

呼吸の合った役者たち。



──だが、その裏側では、確実に何かが壊れ始めていた。









次の出番を待つ蓮は、袖でじっと床を見つめていた。



(……終わらせた、つもりだったのに)



美咲の涙。

「もう甘えない」という言葉。



頭では理解している。

彼女の覚悟も、優しさも。



それでも、胸の奥に残るのは──罪悪感だった。



(俺は……一番残酷な選択をしてる)



誰も選ばず、

でも、心は一人を向いている。



それは役者としても、人としても、ずるい。



袖の奥で、演出家・佐藤が声をかける。



「桜井。次、スタンバイだ」



「……はい」



返事はしたものの、足が一瞬だけ重くなる。



そのとき──

客席の端に座る、あかりの姿が目に入った。



ノートパソコンを膝に置き、

画面を見つめたまま、微動だにしない横顔。



(……あかりさん)



名前を呼びたい衝動を、必死で抑え込む。



今は舞台の上だ。

役者として立つべき場所が、ここにある。









あかりは、台本の修正画面を開いたまま、文字を打てずにいた。



カーソルだけが、無意味に点滅している。



(……ダメだ)



頭では分かっている。



ここは現場。

公演中盤。

脚本家が感情に引きずられてどうする。



それなのに――



(さっきのシーン……)



美咲の台詞。

蓮の返し。



台本通りなのに、

どこか「違う」温度を帯びていた。



(あれ、私が書いた言葉なのに……)



自分の知らない感情が、舞台の上で勝手に生きている。



胸が、苦しくなる。



そのとき、隣に静かに人影が立った。



「……書けてる?」



顔を上げると、高峰翔だった。



「翔さん……」



あかりは慌てて画面を隠すようにノートパソコンを閉じる。



「すみません、今……」



「いいよ。邪魔した」



翔は、舞台を見つめながら言う。



「でもさ」



一拍、間を置いて。



「書けないときほど、無理に書かない方がいい」



あかりは苦笑した。



「……脚本家失格ですね」



「逆」



翔は淡々と言う。



「書けなくなるくらい、ちゃんと人を見てるってことだ」



その言葉に、あかりの指が僅かに震えた。









翔は、横目であかりを見る。



(……完全に、巻き込まれてるな)



本人は気づいていないつもりでも、

感情はすでに舞台の中心に立っている。



「ねえ、水無月さん」



翔は、低い声で続けた。



「君、自分の立場を盾にしてない?」



あかりは、はっとする。



「……え?」



「脚本家だから。役者じゃないから。

 踏み込んじゃいけないって線、引いてるでしょ」



図星だった。



あかりは、何も言えない。



翔は肩をすくめる。



「まあ、悪いことじゃないけどさ」



そして、ほんの少しだけ笑った。



「でも──舞台って、綺麗な線の上だけじゃ、面白くならない」



その言葉は、忠告なのか、挑発なのか。



あかりには、分からなかった。









次のシーン。



蓮が登場し、舞台は再び恋の場面へ。



セリフを交わしながら、

彼の視線が、一瞬だけ客席へ流れる。



──あかりと、目が合った。



ほんの一瞬。

けれど、確かに。



あかりの胸が、強く跳ねる。



(……見ないで)



見てほしいのに。

見られると、壊れてしまいそうで。



蓮も、すぐに視線を逸らす。



(今は……芝居に集中しろ)



互いに、同じように逃げていた。









その日の公演は、無事に終わった。



カーテンコール。

鳴り止まぬ拍手。



舞台は成功している。



──皮肉なほどに。



誰も、大きな一歩を踏み出さないまま。

誰も、本音を口にしないまま。



三角形は、まだ崩れない。



だが──

確実に、歪み始めていた。