スポットライトの中心に立つ蓮。
客席は静まり返り、彼の一言一句に意識が集まっていた。

「──僕は、君に会うために、この街へ来た」

台本通りのセリフ。
だが、その声は、これまでの稽古よりも遥かに深く、震えていた。

ヒロイン役の美咲が、ゆっくりと彼に近づく。

「それは……本当の気持ち?」

美咲の声もまた、どこか切なさを帯びている。

二人の視線が絡む。
その一瞬、舞台上の空気が張りつめた。

客席のあかりは、胸の前で強く両手を握りしめていた。

(……すごい。蓮さん、ちゃんと“そこ”にいる)

役としての感情と、現実の感情。
その境界線が、今この瞬間、溶けかけているのが分かる。

舞台は続く。

蓮の役が、美咲の役の手を取るシーン。

その指先が触れた瞬間──
蓮の呼吸が、僅かに乱れた。

(……違う。これは芝居だ)

そう理解していても、どうしても脳裏に浮かぶのは、客席にいるあかりの姿だった。

「……どうして、そんなに悲しそうな目をするの?」

美咲のセリフが、まるで蓮自身に問いかけているように響く。

「それは──」

台本では、ここは少し間を置いてから答えるはずだった。

だが、蓮は一瞬、言葉に詰まった。

(あかりさん……)

客席の暗闇の中。
あかりは、蓮の異変に気づき、思わず息を呑む。

「蓮さん……?」

次のセリフが、僅かに遅れる。

その瞬間、舞台袖で佐藤が小さく眉を上げた。

(危ない……)

しかし、次の瞬間。

「……君を失うのが、怖いからだ」

蓮の声が、震えながらも力強く響いた。

台本よりも、ほんの少しだけ感情が乗ったセリフ。

だが、不思議と違和感はなかった。

むしろ──
観客の心を、強く揺さぶった。

美咲も、その一言に、ほんの一瞬だけ素の表情を浮かべる。

(……ズルいよ、蓮)

そう思いながらも、すぐに役に戻る。

「だったら……逃げないで。私の前から」

二人の距離が、ゆっくりと縮まっていく。

キス寸前──の演出。

だが、唇が触れる直前、照明が落ち、暗転。

客席から、小さなどよめきが起こった。

その暗闇の中で。

蓮は、思ってしまった。

(……今、手を取っているのは美咲なのに)

(俺が見たいのは──あかりさんだ)

舞台裏。

暗転中の短い転換の時間。
蓮は袖に戻ると、深く息を吐いた。

「……っ」

「蓮、大丈夫?」

美咲が、小声で声をかける。

「あ、ごめん……ちょっと、集中しすぎて」

「ふふ。相変わらず、不器用だね」

そう言って笑う美咲の表情は、どこか寂しげだった。

一方、客席。

あかりは、胸の高鳴りが収まらず、そっと膝の上で手を握り直す。

(どうして……あんな一言で、こんなに胸が苦しくなるの)

あれは、台本のセリフ。
ただの演技。

それなのに──

(“君を失うのが、怖い”なんて……)

勝手に、自分のことのように思えてしまう。

その時、客席の斜め後ろから低い声が聞こえた。

「……いい芝居してるな」

振り返ると、そこにいたのは──高峰翔。

「高峰さん……?」

「偶然、隣に座っちまった。嫌なら席、変わる?」

「い、いえ……大丈夫です」

翔は、舞台に視線を戻す。

「桜井、前よりずっと良くなった。
お前のおかげだな、脚本家さん」

「……私は、何もしていません」

「嘘つけ。今のセリフ、完全に“お前に向けた声”だった」

あかりの心臓が、大きく跳ねる。

「……分かります。役者には」

翔の言葉に、あかりは何も言い返せなかった。

再び、照明が上がる。

第二場が始まる。

蓮は、もう迷わなかった。
だが、その視線の奥には、どうしても消せない“誰か”の存在が宿っていた。

それを、客席のあかりも──
舞台上の美咲も、確かに感じ取っていた。

(蓮……あなたが今、見ているのは誰?)

舞台は進む。
だが、三人の想いは、確実にすれ違い、絡まり始めていた。