まだ薄暗い早朝の劇場。
いつもより早く入ったはずなのに、楽屋前の廊下はすでにざわついていた。

スタッフが走り回り、舞台袖からは大道具を調整する音が響く。
開演まで、あと数時間。

「……今日なんだな」

桜井蓮は、楽屋の鏡の前で衣装に身を包みながら、静かに息を整えていた。

昨夜は、ほとんど眠れなかった。
それでも、不思議と体は軽い。

(怖い。でも……逃げたくない)

ネクタイを結び直した時、コンコンとノックが鳴った。

「蓮、入るぞ」

扉を開けたのは、演出家の佐藤だった。

「顔色は悪くないな。緊張は?」

「……正直、めちゃくちゃしてます」

「それでいい。本番で緊張しない役者なんて信用ならん」

佐藤は、蓮の肩をポンと叩いた。

「ここまで来たら、芝居を信じろ。
それから──脚本を信じろ」

その言葉に、蓮は小さく頷く。

「はい。……水無月さんの、脚本ですから」

一方その頃。

別の楽屋で、椎名美咲は衣装の裾を整えながら、鏡を見つめていた。

ヒロインとしての衣装。
柔らかな色合いのワンピース。
舞台の照明を浴びるために選ばれた一着。

(これ、あの時……)

高校の文化祭で、初めてヒロインを演じた時の衣装と、どこか似ている。

あの頃も、相手役は蓮だった。

「……懐かしいね」

思わず呟いた瞬間、楽屋の扉がそっと開いた。

「美咲」

振り向くと、そこに立っていたのはあかりだった。

「水無月さん……」

美咲は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑んだ。

「忙しいのに、こんなところまで……」

「どうしても、顔を見ておきたくて」

あかりは、少しだけ視線を伏せる。

「今日は……よろしくお願いします。ヒロインとして」

「こちらこそ」

二人の間に、短い沈黙が落ちる。

美咲は、あかりの様子をそっと伺った。

「……蓮のこと、応援してるんですね」

「はい」

迷いのない返事。

「それだけは、絶対に負けたくなくて」

あかりの声は、小さいのに強かった。

美咲は、ふっと苦笑する。

「やっぱり……敵わないな」

「え?」

「何でもない。
今日は、役としてでも、ちゃんと蓮の隣に立つから」

「……ありがとうございます」

二人は、ぎこちなく頭を下げ合った。

同じ人を想っている。
それでも、立場は“脚本家”と“ヒロイン”。

交わるはずのない場所に、今だけ並び立っている。

そして──開演一時間前。

ロビーには、すでに観客の列ができ始めていた。

その中に、ひときわ目立つ人物がいる。

高峰翔だった。

「……満席、か」

チラシを見つめながら、小さく笑う。

「やるじゃないか、桜井」

翔は、誰にも気づかれないように客席へと向かった。

やがて、開演五分前。

舞台袖に、主要キャストが整列する。

張り詰めた空気の中、佐藤の声が響いた。

「全員、気合入れろ。
ここからは、リハーサルじゃない。“本番”だ」

その言葉に、全員が息を呑む。

蓮は、舞台袖から客席を覗いた。

照明に照らされた客席の一角──
そこに、あかりの姿を見つける。

ノートパソコンは持っていない。
ただ一人の観客として、固く手を握ってこちらを見つめていた。

(あかりさん……)

胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。

その時、耳元で美咲が小さくささやいた。

「……行こう、蓮。
私たちの“本番”へ」

「……うん」

暗転。

──そして。

ゆっくりと、幕が上がる。

スポットライトが、蓮を照らし出した。

最初のセリフ。

“彼”としての声が、劇場に響き渡る。

客席のあかりは、息を止めたまま、その姿を見つめていた。

(始まった……蓮さんの舞台)

それは、ただの芝居ではない。

三人の想いが交錯する、
恋と夢の──本当の本番だった。