恋のリハーサルは本番です

劇場の明かりがすべて落ちた深夜。
静寂に包まれた客席に、非常灯の淡い緑だけが残っている。

本番前夜。

桜井蓮は、誰もいない舞台の中央に一人立っていた。

(ここが、俺の初主演の場所……)

昼間、何十回と踏んだ床。
今は、不思議なほど広く、心細く感じられる。

「怖いな……」

思わず零れた本音は、静かな劇場に吸い込まれていった。

台本は、もう完璧に頭に入っている。
動きも、間も、演出通りだ。
それでも、不安が消えない。

(芝居が怖いんじゃない……)

怖いのは──
本番が終わったあと、何かが終わってしまう気がすること。

蓮の脳裏に浮かぶのは、あかりの横顔だった。

稽古場でノートパソコンを睨みながら、必死にセリフを書き直す姿。
自分の芝居に一喜一憂する、あの真っ直ぐな瞳。

(あかりさん……)

美咲の想いを知っていても、
あかりへの気持ちは、揺るがなかった。

それが、誰かを傷つけると分かっていても──。

一方その頃。

安アパートの一室で、水無月あかりはノートパソコンの画面を見つめたまま、指を止めていた。

画面に映るのは、完成したはずの最終稿。

それでも、スクロールしては戻し、同じシーンを何度も読み返している。

(もう、直すところなんてないのに……)

セリフの一つ一つが、まるで自分の心を映しているみたいで、胸が締めつけられる。

『──君の言葉が、僕の背中を押したんだ』

ヒーローのそのセリフに、思わず息を詰めた。

(これ、ほとんど……私と蓮さん、じゃん)

恋を題材にしたはずの物語が、
気づけば、自分の恋そのものになっていた。

「……脚本家失格だな、私」

そう呟きながらも、消去ボタンを押すことはできない。

その時、スマホが震えた。

『明日、頑張ろうな』

蓮からの一言だけのメッセージ。

それだけで、胸の奥が熱くなる。

(……好き)

何度も胸の内で言った言葉。
でも、送信する勇気はない。

あかりは、そっとスマホを胸に抱きしめ、布団に倒れ込んだ。

「……明日で、全部終わっちゃうのかな」

涙が、そっと枕に滲んだ。

そして、もう一人。

椎名美咲は、自宅の鏡の前で、静かに役のセリフを口にしていた。

「──あなたが好き。ずっと、昔から……」

その言葉を口にした瞬間、声が詰まる。

鏡に映る自分の目が、泣きそうだった。

(役のセリフなのに……)

どうして、こんなにも本音みたいなんだろう。

「私は、女優。代役のヒロイン。
……それだけで、いいでしょ」

誰に言うでもなく、そう言い聞かせる。

でも、心は正直だった。

高校の演劇部の頃から、
ずっと、蓮の背中を見ていた。

走るときも、悩むときも、泣くときも。

(やっと、同じ舞台に立てたのに……)

それが“代役”で、“恋の相手役”だなんて、皮肉すぎる。

美咲は、鏡に映る自分に、そっと微笑んだ。

「明日は……ちゃんと、ヒロインになる」

たとえ、
本当の恋のヒロインじゃなくても。

こうして、三人はそれぞれの夜を迎えた。

眠れぬまま、
同じ舞台のことを想いながら。

本番まで──残り、数時間。