恋のリハーサルは本番です

楽屋の扉の前で、蓮はしばらく立ち尽くしていた。
ノックしたものの、すぐに入る勇気が出なかった。

(今さら、何を話せばいいんだ……)

通し稽古、ゲネプロ。
美咲の芝居は完璧だった。感情の乗り方も、間の取り方も、すべてが本番仕様だ。
それでも、舞台上で向けられる彼女の視線を、蓮は「芝居」と言い切れずにいる。

「……入らないの?」

扉の内側から、美咲の少し緊張した声がした。
蓮は意を決して扉を開ける。

「悪い。もう終わってると思ってた」
「まだメイク落としてなくて……どうしたの?」

美咲は鏡台の前に座ったまま、蓮を見上げる。
楽屋の蛍光灯が、どこか現実味のない光を二人に落としていた。

「さっきの芝居……」
「……うん」

言いかけて、蓮は言葉に詰まる。

(違う。芝居の話をしに来たわけじゃない)

「……美咲は、怖くないのか?」

不意にそう尋ねると、美咲は一瞬だけ目を伏せた。

「怖いよ」
「本番が?」
「それもあるけど……」

はっきり言わず、美咲は小さく笑う。

「蓮の隣に立つこと、かな」

蓮の胸が、強く締めつけられた。

「代役って分かってても……昔のままみたいで、ちょっとだけ、勘違いしそうになるから」

その言葉には、冗談めかした響きと同時に、隠しきれない本音が滲んでいた。

「……勘違いなんて、するなよ」

そう言った瞬間、蓮は自分の声が震えていることに気づいた。

「俺には──」
「分かってる」

美咲は、蓮の言葉を遮るように、静かに言う。

「水無月さん、でしょ」

その一言で、空気が張りつめた。

「……脚本家の人」
「“人”って言い方、冷たいね」

美咲は微笑みながらも、視線は揺れていた。

「でも、いいよ。
私は“ヒロイン役”でいられれば。それで充分」

その強がりに、蓮は何も返せなかった。

その頃──
劇場の外、夜風の冷たい歩道で、あかりは一人、ノートパソコンを抱えて立ち尽くしていた。

ゲネプロの後、そのまま帰るつもりだった。
けれど、どうしても頭の中が整理できず、気づけば劇場の前をうろついていた。

(……私は、何をしに来たんだろう)

脚本の最終確認。
それとも──蓮の顔を、もう一度見たかっただけなのか。

その時、背後から聞き慣れた声がした。

「水無月」

振り向くと、そこに立っていたのは劇団責任者の神埼だった。

「随分と遅くまで残っているな」
「……少し、考え事を」

神埼はあかりの抱えるノートパソコンに目をやる。

「最終稿か」
「はい。もう、ほとんど直すところはありません」

そう答えながらも、あかりの胸はざわついていた。

「……水無月。君は、この芝居で何を描きたい?」
「え?」

不意の問いに、あかりは言葉を失う。

「恋ですか。夢ですか。挫折ですか」
「……」

「それとも──君自身ですか」

神埼の静かな言葉が、胸に深く突き刺さる。

「脚本家はな、自分の感情を切り売りする仕事だ。
だが、切り売りする覚悟がないなら、舞台に立たせてはいけない」

あかりはぎゅっとノートパソコンを抱きしめた。

(私は……逃げてる)

恋を題材にしながら、
自分の恋からは距離を取ろうとしている。

“脚本家だから”
“役者だから”

その線を引いたのは、自分自身だった。

「……本番までに、答えを出します」

震える声で、あかりはそう告げた。

神埼は小さくうなずく。

「それでいい。
この舞台は、“ごっこ”では通用しない」

一方、楽屋では──
蓮が美咲の前に一歩、踏み出していた。

「美咲。俺は──」
「言わないで」

美咲は、そっと立ち上がり、蓮との距離を詰める。

「今、それを聞いたら……私は、舞台に立てなくなる」

二人の距離は、指先が触れそうなほど近い。
けれど、その距離以上に、心はまだ遠かった。

「私は、ヒロイン役として、最後までやりきる。
それが、私の選んだ“役”だから」

そう言って微笑む美咲の表情は、あまりにも悲しげで──
蓮は、それ以上言葉を紡ぐことができなかった。

本番まで、あと一日。

踏み込めない本音。
踏み込んでしまった距離。

そして、三人の想いは、
静かに、しかし確実に、交差点へと近づいていた。