ゲネプロを終えた劇場のロビーは、拍手の余韻とは裏腹に、不思議な静けさに包まれていた。
役者たちはそれぞれに言葉少なに荷物をまとめ、足早に帰路につく者もいれば、楽屋に戻る者もいる。

桜井蓮は、照明の落ちた舞台をしばらく見つめたまま、動けずにいた。

(……まだ、足りない)

確かに手応えはあった。
台詞も動きも、感情も、これまでで一番“届いた”という実感がある。
それでも、佐藤の言葉が頭から離れなかった。

──命を賭けてるようには、まだ見えない。

「蓮」

背後から、低く落ち着いた声がした。
振り返ると、そこにいたのは高峰翔だった。

「今日のゲネ、良かったじゃないか」
「……そう見えました?」

蓮は苦笑する。
翔は肩をすくめた。

「少なくとも、前よりはずっと“主役”らしくなった」
「それ、褒めてるんですか?」
「半分はな」

一瞬の沈黙。
翔は意外そうなほど静かな声で続けた。

「……なあ蓮。お前、あの脚本家の子のこと、どう思ってる?」

喉が、きゅっと詰まった。

「……水無月さんのこと、ですか」
「他に誰がいる」

翔は視線を逸らし、遠くの客席を見つめる。

「お前の芝居、あいつの前だと、妙に揺れる」 「……」

否定したかった。
だが、否定の言葉は出てこなかった。

「恋のリハーサル、って舞台のタイトル。皮肉が効いてるよな」
「……」

翔は小さく息を吐いた。

「俺は、舞台のために恋を壊してきた。
でもお前は──恋のために、舞台を壊すかもしれない顔をしてる」

蓮は、返す言葉を失った。

その頃──
ロビーの隅で、水無月あかりはスマートフォンを見つめたまま、動けずにいた。

画面には、美咲からの未読メッセージ。

『さっきは、ありがとうございました。ゲネ、見てくれていませんでしたよね。でも、きっと客席のどこかにいるって、分かってました』

指先が、わずかに震える。

(……見てた。ずっと、見てた)

舞台の上で、蓮が美咲に向けた“想い”の言葉。
それが芝居だと分かっていても、心のどこかで、どうしても重ねてしまう。

(あれは、誰に向けた言葉だったんだろう)

そのとき、背後から声がかかった。

「水無月」

振り向くと、そこにいたのは演出家の佐藤だった。

「……はい」
「少し、話せるか」

楽屋裏の通路に移動し、二人きりになる。
佐藤はしばらく黙ったまま、あかりの顔をまっすぐ見た。

「なあ、聞かせてくれ。
この脚本──お前は、“誰の恋”を書いた?」

不意に投げられた質問に、あかりは息を詰めた。

「……それは」
「物語の中の恋か。それとも──」

佐藤の声は静かだったが、鋭かった。

「お前自身の恋か」

胸の奥を、見透かされた気がした。

「……分かりません」

あかりは、小さく首を振った。

「最初は、ただの取材でした。役者の感情を知りたくて、蓮さんに協力してもらって……」 「で?」
「気づいたら、分からなくなってました。
これは、誰の気持ちなのか。
どこからが“台本”で、どこまでが“本音”なのか……」

佐藤は、わずかに目を細めた。

「それでいい」
「……え?」
「迷いのない脚本は、きれいだが、人の心は掴めない」

低く、はっきりと告げる。

「だがな。
お前が“誰のために”この物語を書いたのかだけは、本番までに決めろ」

その言葉は、優しさと同時に、残酷でもあった。

一方──
楽屋では、美咲が一人、鏡の前に座っていた。

(……あの台詞)

蓮に告げた“失いたくない”という言葉。
あれは芝居のはずなのに、どこか自分自身の気持ちと重なってしまった。

高校時代。
演劇部で並んで立っていた蓮の背中。
憧れと恋が、入り混じった記憶。

(私は……今、何のために、この舞台に立っているんだろう)

“代役”として選ばれたヒロイン。
でも、もしそこに“恋”が混じっているなら──
それは、舞台にとって正しいのだろうか。

その時、楽屋の扉がノックされた。

「……美咲、いるか」

蓮の声だった。

美咲は一瞬、呼吸を整え、静かに答える。

「……はい」

扉の向こうで、二人の想いが、静かに、しかし確実に交錯し始めていた。

本番まで、あと二日。

この舞台は、
誰のための“恋”を描くのか──
答えは、まだどこにも出ていなかった。