恋のリハーサルは本番です

翌日。
劇場の客席には、いつもと違う気配が満ちていた。

最前列には制作スタッフ、照明、音響、関係者たちがずらりと並び、薄暗い客席が無言の圧を放っている。
“通し稽古”ではない。
本番と同じ条件で行われる、最後の予行演習──ゲネプロ。

「……いよいよだな」

袖でストレッチをしながら、蓮が静かに息を吐いた。
その横で、美咲は衣装の裾を整えながら、緊張で少し肩をすくめている。

「震えてる?」
「少し……でも、逃げません」

真っすぐ前を見つめる美咲の横顔は、もう“代役”ではなかった。
この舞台の“ヒロイン”そのものだった。

少し離れた場所で、高峰翔が二人をじっと見ている。

「……いい顔してるじゃないか」

それが誰に向けた言葉なのかは、自分でも分からなかった。

照明ブースの後方。
水無月あかりは、台本を胸に抱えながら、客席の端に座っていた。

(ここは……私の居場所)

舞台上には上がらない。
照明も浴びない。
それでも、この物語の“すべて”を生み出したのは、確かに自分だ。

だが──
自分の言葉が、誰かの声と身体を借りて“生き物”になる瞬間を前にすると、胸の奥がざわつく。

「緊張してる?」

隣に、劇団責任者の神埼が腰を下ろした。

「……はい。自分が書いたものなのに、怖くて」
「それはきっと、“失敗するのが怖い”んじゃない」

神埼は静かに言った。

「“奪われるのが怖い”んだよ。自分の物語が、役者たちの物になる瞬間を」
「……」

あかりは返事ができなかった。

その時、舞台袖から佐藤の声が響く。

「──ゲネプロ始めるぞ。全員、配置につけ」

劇場の空気が、一気に引き締まった。

暗転。
そして──開幕。

蓮の第一声が、静寂を切り裂いた瞬間、
あかりは思わず指先に力を込めた。

(……蓮の声が、私の言葉を連れていく)

台詞は、これまでにないほど自然だった。
感情の流れ。
間。
迷いと決意が混じる瞬間。

それを受け止める美咲の演技も、今日の彼女は別人のようだった。
揺れる心、抑えきれない想い、わずかな嫉妬と、必死な微笑。

二人が視線を交わすシーンで、
客席の空気が、目に見えて変わった。

──“恋”が、そこにあった。

あかりの胸が、きゅっと締めつけられる。

(……これが、完成した“二人”)

台本通り。
なのに、自分が書いた以上の感情が、確かにそこに存在していた。

中盤。
翔が登場する場面では、空気が一変する。

対峙する蓮と翔。
ぶつかり合う台詞。
ぶつかり合う感情。

客席のスタッフが、無意識に前のめりになるのが分かる。

(……翔も、すごい)

冷静で鋭く、しかしどこか孤独を宿した存在感。
三人が揃った瞬間、この舞台の“三角”は完成した。

クライマックス。

蓮と美咲が、想いを打ち明け合う場面。

「──君を、失いたくない」

震える声で告げる蓮。
涙を必死に堪えながら、美咲が答える。

「……でも、あなたの世界には、私だけじゃない」

その台詞が劇場に溶けた瞬間、
あかりの胸に、鋭い痛みが走った。

(……それは、私の台詞なのに)

なぜか、自分自身に突き刺さってくる言葉だった。

暗転。
そして、終幕。

数秒の沈黙のあと、客席に小さな拍手が起こり、それが次第に広がっていく。
ゲネプロとしては異例の、熱のこもった拍手だった。

「……よし」

佐藤が短く呟いた。

だが、その表情はまだ厳しい。

「演技は悪くない。だが──」

彼の視線が、蓮、美咲、翔、そして客席のあかりへと順に向けられる。

「感情が“本番前の安全圏”にある。命を賭けてるようには、まだ見えない」

静まり返る劇場。

「その差は、本番で一気に表に出る。
──今日の出来で満足した者から、舞台は裏切られる」

誰も、声を発せなかった。

ゲネプロは終わった。
だが、役者たちの戦いは、まだ始まったばかりだった。

そして、あかりは気づいてしまう。

この舞台が──
自分の手を、静かに、しかし確実に離れ始めていることに。