稽古場の照明が落ち、重たい沈黙が流れた。
「……今日はここまで」
演出家・佐藤の低い声が響くと、張り詰めていた空気が一気にゆるむ。
本番三日前。最後の通し稽古を終えた役者たちの顔には、安堵と疲労、そして拭いきれない不安が入り混じっていた。
桜井蓮は、しばらくその場から動けずに立ち尽くしていた。
(……まだ足りない)
手応えは、あった。だが、満足には程遠い。
客席に届く“何か”が、まだ掴みきれていない。
「蓮」
声をかけてきたのは、高峰翔だった。
汗で濡れた髪を乱暴にかき上げ、いつになく真剣な目をしている。
「今日のラスト、少し遅れたな」
「……ああ。自分でも分かってる」
悔しそうに言う蓮に、翔は小さく息を吐いた。
「でも、悪くなかった。少なくとも、前よりはずっと」
「慰めか?」
「激励だよ。……本番で、俺と本気でぶつかるためのな」
その言葉は挑発のようで、しかし不思議と温度のある響きだった。
二人の会話を、少し離れた場所で椎名美咲が見ていた。
タオルで額の汗を拭きながら、その視線は無意識に蓮へ向かってしまう。
(……やっぱり、蓮は変わった)
高校時代、舞台に立つことに怯えていた彼は、もういない。
自信と責任を背負った“役者の背中”が、そこにあった。
「美咲、大丈夫?」
振り返ると、水無月あかりが台本を抱えて立っていた。
脚本家として稽古を見守り続けた彼女の目にも、くっきりと疲れが滲んでいる。
「はい。少し……緊張してるだけです」
「それはみんな同じよ。私も心臓がまだ舞台に置いてきぼり」
苦笑するあかりに、美咲もつられて小さく笑った。
だが、その表情の裏で、あかりの胸は別の理由でもざわついていた。
今日の通し稽古で、椎名美咲は確実に“ヒロイン”になっていた。
完成度の高い感情表現。蓮との距離の自然さ。
(……私は脚本家。そう言い聞かせてきたのに)
それでも、心は思うように割り切れない。
稽古場の片付けが進む中、劇団責任者の神埼が全員を集めた。
「明日はゲネプロだ。客席にはスタッフ、関係者が入る。本番と同じ進行でやる。失敗は許されない」
一瞬、空気が凍りついた。
「だが──今の君たちなら、やれる。そう信じてる」
その言葉に、役者たちはそれぞれ静かに頷いた。
夜。
一人、稽古場を後にした蓮は、人気のない路地に足を止めた。
スマホを握りしめ、何度も画面を見ては消す。
そこへ、背後から足音。
「……やっぱりここにいた」
振り返ると、あかりが立っていた。
「どうして……?」
「通し稽古のあと、蓮の顔がずっと曇ってたから」
しばらく、二人の間に静寂が流れる。
やがて、蓮がぽつりと呟いた。
「……俺、まだ足りない。役にも、役者としても」
「それでも、あなたは前に進んでる」
あかりの声は、優しく、しかし揺れていた。
「私が書いた役以上のものを、もう蓮は見せようとしてる」
「……それ、嬉しいよ」
ふと、蓮があかりを見つめる。
「でもさ、あかりは……この舞台、どう見てる?」 「脚本家として?」 「一人の人間として」
その問いに、あかりは言葉を失った。
脚本家としての冷静な視線と、
蓮を想う一人の女性としての感情──
その間で、彼女はずっと揺れ続けている。
「……今は、まだ答えられない」
それだけを告げ、あかりは目を伏せた。
遠くで、夜風に舞台の幕の音がかすかに鳴った。
明日はゲネプロ。
そして、その先にはもう──逃げ場のない“本番”が待っている。
それぞれの胸に、言えない想いを抱えたまま。
静かな嵐の前夜は、深く更けていった──。
「……今日はここまで」
演出家・佐藤の低い声が響くと、張り詰めていた空気が一気にゆるむ。
本番三日前。最後の通し稽古を終えた役者たちの顔には、安堵と疲労、そして拭いきれない不安が入り混じっていた。
桜井蓮は、しばらくその場から動けずに立ち尽くしていた。
(……まだ足りない)
手応えは、あった。だが、満足には程遠い。
客席に届く“何か”が、まだ掴みきれていない。
「蓮」
声をかけてきたのは、高峰翔だった。
汗で濡れた髪を乱暴にかき上げ、いつになく真剣な目をしている。
「今日のラスト、少し遅れたな」
「……ああ。自分でも分かってる」
悔しそうに言う蓮に、翔は小さく息を吐いた。
「でも、悪くなかった。少なくとも、前よりはずっと」
「慰めか?」
「激励だよ。……本番で、俺と本気でぶつかるためのな」
その言葉は挑発のようで、しかし不思議と温度のある響きだった。
二人の会話を、少し離れた場所で椎名美咲が見ていた。
タオルで額の汗を拭きながら、その視線は無意識に蓮へ向かってしまう。
(……やっぱり、蓮は変わった)
高校時代、舞台に立つことに怯えていた彼は、もういない。
自信と責任を背負った“役者の背中”が、そこにあった。
「美咲、大丈夫?」
振り返ると、水無月あかりが台本を抱えて立っていた。
脚本家として稽古を見守り続けた彼女の目にも、くっきりと疲れが滲んでいる。
「はい。少し……緊張してるだけです」
「それはみんな同じよ。私も心臓がまだ舞台に置いてきぼり」
苦笑するあかりに、美咲もつられて小さく笑った。
だが、その表情の裏で、あかりの胸は別の理由でもざわついていた。
今日の通し稽古で、椎名美咲は確実に“ヒロイン”になっていた。
完成度の高い感情表現。蓮との距離の自然さ。
(……私は脚本家。そう言い聞かせてきたのに)
それでも、心は思うように割り切れない。
稽古場の片付けが進む中、劇団責任者の神埼が全員を集めた。
「明日はゲネプロだ。客席にはスタッフ、関係者が入る。本番と同じ進行でやる。失敗は許されない」
一瞬、空気が凍りついた。
「だが──今の君たちなら、やれる。そう信じてる」
その言葉に、役者たちはそれぞれ静かに頷いた。
夜。
一人、稽古場を後にした蓮は、人気のない路地に足を止めた。
スマホを握りしめ、何度も画面を見ては消す。
そこへ、背後から足音。
「……やっぱりここにいた」
振り返ると、あかりが立っていた。
「どうして……?」
「通し稽古のあと、蓮の顔がずっと曇ってたから」
しばらく、二人の間に静寂が流れる。
やがて、蓮がぽつりと呟いた。
「……俺、まだ足りない。役にも、役者としても」
「それでも、あなたは前に進んでる」
あかりの声は、優しく、しかし揺れていた。
「私が書いた役以上のものを、もう蓮は見せようとしてる」
「……それ、嬉しいよ」
ふと、蓮があかりを見つめる。
「でもさ、あかりは……この舞台、どう見てる?」 「脚本家として?」 「一人の人間として」
その問いに、あかりは言葉を失った。
脚本家としての冷静な視線と、
蓮を想う一人の女性としての感情──
その間で、彼女はずっと揺れ続けている。
「……今は、まだ答えられない」
それだけを告げ、あかりは目を伏せた。
遠くで、夜風に舞台の幕の音がかすかに鳴った。
明日はゲネプロ。
そして、その先にはもう──逃げ場のない“本番”が待っている。
それぞれの胸に、言えない想いを抱えたまま。
静かな嵐の前夜は、深く更けていった──。



