本番三日前。
いよいよ、最後の通し稽古が始まった。
舞台袖に立つ蓮は、深く息を吸い、吐く。
客席は静まり返り、照明だけが淡く舞台を照らしている。
(ここまで来たんだ……)
失敗は許されない。
役者としても、一人の人間としても。
「──本番通りにいく。集中しろ」
佐藤の低い声が響く。
そして、幕が上がった。
序盤は順調だった。
蓮の芝居は安定しており、佐藤も神埼も、険しいながら納得した表情を浮かべている。
問題が起きたのは、中盤──
蓮、美咲、翔による三人の重要な感情交錯シーンだった。
「……君を失うくらいなら、嘘でも一緒にいたい」
翔の台詞が、鋭く突き刺さる。
「そんなの、優しさでも何でもない……!」
美咲が震える声で返す。
そして、蓮の番。
「──俺が、君を守る」
そう言うはずだった。
だが──
蓮の視線が、ほんの一瞬、客席後方のあかりに逸れた。
(守りたい人は……)
その一瞬の迷いが、致命的だった。
「……俺が……」
言葉が、詰まる。
「桜井!」
佐藤の鋭い声が飛ぶ。
蓮ははっと我に返り、無理やり台詞を続けたが、場の空気は完全に崩れていた。
「カット!!」
静寂が落ちる。
佐藤は頭を抱え、苛立ちを隠さずに言った。
「今のは何だ。心が舞台にない」
蓮は、深く頭を下げた。
「……すみません」
視線を上げた先で、あかりが青ざめているのが見えた。
(私のせいだ……)
あかりは痛いほど感じ取っていた。
蓮の迷いの原因が、自分であることを。
通し稽古が終わったあと。
誰もが重い空気をまとったまま、舞台を降りる。
あかりは意を決して、蓮のもとへ向かった。
「蓮……さっきの……」
「……いい。今は、仕事の話だけしよう」
蓮の声音は、驚くほど固かった。
「私が、集中させられなかったんだよね……」
「違う」
即答だった。
「俺が、役者として未熟なだけだ」
だが、蓮の拳は小刻みに震えていた。
あかりは、それ以上、何も言えなかった。
一方、美咲は、舞台袖で翔に声をかけられていた。
「……桜井、完全にお前に気を取られてたな。脚本家さんに」
翔は薄く笑う。
「……関係ありません。蓮は、役と役者の区別くらい出来ます」
そう言いながらも、美咲の胸は締めつけられていた。
(それでも……あかりさんの存在が、大きすぎる)
「お前さ、本気だろ。桜井のこと」
翔の指摘に、美咲は一瞬だけ言葉を失い、やがて小さくうなずいた。
「……はい」
「じゃあ、遠慮するな。舞台は戦場だ」
翔はそれだけ言い残し、去っていった。
その夜。
あかりは自室で、何度も台本を開いては閉じていた。
(私が、彼を苦しめてる……)
恋愛感情を持ってはいけない。
脚本家として、役者と距離を越えてはいけない。
なのに──
「……好きになっちゃったのは、どうしようもないよ」
涙が、キーボードの上に落ちた。
そこへ、スマホが鳴る。
蓮からだった。
『今、少し話せる?』
胸が締めつけられる。
『……うん』
数分後、あかりは夜の街へ出た。
街灯の下。
並んで歩く二人の間には、稽古場とは違う緊張が流れていた。
「……今日のこと」
先に口を開いたのは、蓮だった。
「俺、本番が怖くなった」
「……え?」
「役としてじゃない。
──あかりと、ちゃんと向き合うのが」
あかりは、息を呑む。
「本番が終わったら、全部が終わるような気がして……」
「そんなことないよ」
「ある。少なくとも、今の“逃げてる関係”は」
沈黙が落ちた。
「……だから」
蓮は、あかりの方を向いた。
「本番が終わるまで、お互い“仕事に徹しよう”」
あかりの胸が、ぎゅっと締まる。
「……それって……距離を置くってこと?」
「そうしないと、俺は舞台にも、あかりにも、中途半端になる」
しばらく、言葉が出なかった。
やがて、あかりは震える声で答えた。
「……分かった。脚本家として、役者として……ちゃんとやろう」
「……ごめん」
「ううん。……ありがとう、正直に言ってくれて」
二人は、ほんの少し距離をあけて立った。
触れられるほど近いのに、
心は、ひどく遠かった。
それぞれが背を向け、別々の方向へ歩き出す。
振り返らなかった。
振り返れなかった。
それが、今できる精一杯の“選択”だったから。
そしてその夜──
蓮のアパートのポストに、ひとつの封筒が投げ込まれる。
差出人欄には、小さく書かれていた。
「椎名 美咲」
中には、蓮宛ての短い手紙と、昔の写真が一枚。
高校時代、演劇部の舞台で並んで立つ二人の姿。
(……美咲)
三角関係は、静かに、しかし確実に──
次の局面へと進み始めていた。
いよいよ、最後の通し稽古が始まった。
舞台袖に立つ蓮は、深く息を吸い、吐く。
客席は静まり返り、照明だけが淡く舞台を照らしている。
(ここまで来たんだ……)
失敗は許されない。
役者としても、一人の人間としても。
「──本番通りにいく。集中しろ」
佐藤の低い声が響く。
そして、幕が上がった。
序盤は順調だった。
蓮の芝居は安定しており、佐藤も神埼も、険しいながら納得した表情を浮かべている。
問題が起きたのは、中盤──
蓮、美咲、翔による三人の重要な感情交錯シーンだった。
「……君を失うくらいなら、嘘でも一緒にいたい」
翔の台詞が、鋭く突き刺さる。
「そんなの、優しさでも何でもない……!」
美咲が震える声で返す。
そして、蓮の番。
「──俺が、君を守る」
そう言うはずだった。
だが──
蓮の視線が、ほんの一瞬、客席後方のあかりに逸れた。
(守りたい人は……)
その一瞬の迷いが、致命的だった。
「……俺が……」
言葉が、詰まる。
「桜井!」
佐藤の鋭い声が飛ぶ。
蓮ははっと我に返り、無理やり台詞を続けたが、場の空気は完全に崩れていた。
「カット!!」
静寂が落ちる。
佐藤は頭を抱え、苛立ちを隠さずに言った。
「今のは何だ。心が舞台にない」
蓮は、深く頭を下げた。
「……すみません」
視線を上げた先で、あかりが青ざめているのが見えた。
(私のせいだ……)
あかりは痛いほど感じ取っていた。
蓮の迷いの原因が、自分であることを。
通し稽古が終わったあと。
誰もが重い空気をまとったまま、舞台を降りる。
あかりは意を決して、蓮のもとへ向かった。
「蓮……さっきの……」
「……いい。今は、仕事の話だけしよう」
蓮の声音は、驚くほど固かった。
「私が、集中させられなかったんだよね……」
「違う」
即答だった。
「俺が、役者として未熟なだけだ」
だが、蓮の拳は小刻みに震えていた。
あかりは、それ以上、何も言えなかった。
一方、美咲は、舞台袖で翔に声をかけられていた。
「……桜井、完全にお前に気を取られてたな。脚本家さんに」
翔は薄く笑う。
「……関係ありません。蓮は、役と役者の区別くらい出来ます」
そう言いながらも、美咲の胸は締めつけられていた。
(それでも……あかりさんの存在が、大きすぎる)
「お前さ、本気だろ。桜井のこと」
翔の指摘に、美咲は一瞬だけ言葉を失い、やがて小さくうなずいた。
「……はい」
「じゃあ、遠慮するな。舞台は戦場だ」
翔はそれだけ言い残し、去っていった。
その夜。
あかりは自室で、何度も台本を開いては閉じていた。
(私が、彼を苦しめてる……)
恋愛感情を持ってはいけない。
脚本家として、役者と距離を越えてはいけない。
なのに──
「……好きになっちゃったのは、どうしようもないよ」
涙が、キーボードの上に落ちた。
そこへ、スマホが鳴る。
蓮からだった。
『今、少し話せる?』
胸が締めつけられる。
『……うん』
数分後、あかりは夜の街へ出た。
街灯の下。
並んで歩く二人の間には、稽古場とは違う緊張が流れていた。
「……今日のこと」
先に口を開いたのは、蓮だった。
「俺、本番が怖くなった」
「……え?」
「役としてじゃない。
──あかりと、ちゃんと向き合うのが」
あかりは、息を呑む。
「本番が終わったら、全部が終わるような気がして……」
「そんなことないよ」
「ある。少なくとも、今の“逃げてる関係”は」
沈黙が落ちた。
「……だから」
蓮は、あかりの方を向いた。
「本番が終わるまで、お互い“仕事に徹しよう”」
あかりの胸が、ぎゅっと締まる。
「……それって……距離を置くってこと?」
「そうしないと、俺は舞台にも、あかりにも、中途半端になる」
しばらく、言葉が出なかった。
やがて、あかりは震える声で答えた。
「……分かった。脚本家として、役者として……ちゃんとやろう」
「……ごめん」
「ううん。……ありがとう、正直に言ってくれて」
二人は、ほんの少し距離をあけて立った。
触れられるほど近いのに、
心は、ひどく遠かった。
それぞれが背を向け、別々の方向へ歩き出す。
振り返らなかった。
振り返れなかった。
それが、今できる精一杯の“選択”だったから。
そしてその夜──
蓮のアパートのポストに、ひとつの封筒が投げ込まれる。
差出人欄には、小さく書かれていた。
「椎名 美咲」
中には、蓮宛ての短い手紙と、昔の写真が一枚。
高校時代、演劇部の舞台で並んで立つ二人の姿。
(……美咲)
三角関係は、静かに、しかし確実に──
次の局面へと進み始めていた。



