恋のリハーサルは本番です

 本番まで、あと一週間。

 稽古場の空気は、これまで以上に張りつめていた。
 通し稽古が始まり、誰もが本気の表情で舞台に立っている。

「テンポは悪くない。ただし感情がまだ浅い」
 演出家・佐藤が腕を組んで言った。

「特に桜井。ここは“迷い”と“覚悟”が同時にある場面だ。どちらかに偏るな」

「……はい」

 蓮は唇を噛み、深くうなずいた。

 あかりは客席の後方、ノートパソコンを膝に置き、必死に修正メモを打ち込んでいた。
 視線は自然と、蓮のほうに引き寄せられる。

(……ずいぶん、表情が変わった)

 以前よりも、ずっと強く、切実に。
 脚本家として見れば“理想的な成長”。
 でも──あかりの胸は、痛いほどざわついていた。

「はい、次。高峰と椎名の場面」

 翔と美咲が舞台中央へ出る。

 翔の芝居は相変わらず鋭く、存在感が圧倒的だった。
 美咲も、それに必死に食らいつく。

「……あなたを信じたい。でも、怖いの」

 美咲のセリフには、どこか“役”以上の感情が滲んでいた。

(……美咲さん……)

 あかりは気づいてしまう。
 あの視線は“演技”だけではないことを。

「カット。──いいぞ、椎名。今のは本音が乗ってた」

 佐藤の言葉に、美咲は少しだけ困ったように笑い、視線を伏せた。

「……ありがとうございます」

 その様子を、蓮が複雑な表情で見つめているのを、あかりは見逃さなかった。




 休憩時間。
 劇場のロビーには、自動販売機の機械音だけが響いている。

「あかり」

 後ろから声をかけたのは、劇団責任者の神埼だった。

「神埼さん」

「脚本の最終稿、明日の午前中には欲しい。客入れ稽古に間に合わせたい」

「はい、今夜中に仕上げます」

 あかりはそう言いながらも、どこか迷いのある目をしていた。

「……迷ってるな?」

「え……?」

「セリフだろ。恋愛感情の描写が、あと一歩踏み切れてない」

 図星だった。

「……書けないんです。本当の“答え”が、自分の中でもぐちゃぐちゃで」

 神埼は小さく息を吐き、優しく言った。

「脚本はな、“今の自分”でしか書けない。答えが出てないなら、出てないまま書けばいい」

「……それで、いいんでしょうか」

「それが、芝居になる」

 あかりは、その言葉を胸に刻み込む。




 その夜。
 蓮は稽古場に忘れた小道具を取りに戻り、ロビーの灯りがまだ点いているのに気づいた。

 中をのぞくと、ソファに座ってノートパソコンを打ち続けるあかりの姿があった。

「あかり……?」

「……あ、蓮。もう帰ったと思ってた」

 目が赤い。
 長い時間、画面と向き合っていたのが一目で分かった。

「無理しすぎだ」

「しないと……間に合わないから」

 あかりは笑おうとして、うまく笑えなかった。

 蓮は、少しだけ迷ってから、あかりの前に座る。

「なあ……この舞台が終わったらさ」

「……?」

「その時、ちゃんと聞かせてほしい。
 あかりの“答え”」

 あかりの指が、キーボードの上で止まった。

「それって……」

「逃げない。もう、リサーチだとか、立場だとか、全部言い訳にしない」

 真っ直ぐな瞳だった。

 あかりは、しばらく沈黙したあと、小さくうなずいた。

「……うん。逃げない」

 二人の間に、かすかな“約束”が生まれる。

 その様子を──
 ロビーの入口から、美咲が静かに見つめていた。

(……やっぱり、蓮は……)

 胸の奥が、ずきりと痛む。
 それでも、美咲は小さく微笑んだ。

(それでも……私は、舞台の上で勝負する)

 恋も、演技も。
 それぞれの想いが、静かに加速していく。

 そして──
 本番の足音が、すぐそこまで迫っていた。