恋のリハーサルは本番です

 休憩スペースから控室へ向かう廊下。
 あかりはゆっくり歩きながら、胸の奥にたまった不安をほぐそうとしていた。

(翔さん……あんなふうに言うなんて)

 優しすぎる──
 その一言が、何度も頭の中で反響する。

(私、そんなつもりじゃ……)

 蓮に対して特別な想いがある。
 でも同時に、翔のまっすぐな優しさを否定したくない自分もいる。

 そして美咲の気持ちに気づきながら、曖昧にしてしまっている──
 その全部が胸を締めつけていた。

 控室の入口の前で立ち止まり、深呼吸する。

(大丈夫。仕事に集中しなきゃ)

 ノックしようと手を伸ばした、その瞬間──

「水無月さん」

 振り返ると、佐藤が静かな目で立っていた。

「あ、佐藤さん。すみません、伺おうと思って……」

「いや、ちょうどよかった。少し歩きながらでいい?」

「はい」

 二人は並んで廊下を進んだ。
 劇団のざわめきが遠くから聞こえてくる。

「さっきの、見ていたよ」
 佐藤の言葉に、あかりはすこし肩を縮める。

「……すみません、私のせいで」

「謝る必要はないよ。あれは彼ら自身の問題だ。……だが」

「……?」

「台本を書く側として、人の感情には誰より敏感なんだろう。だからこそ、巻き込まれやすい」

 佐藤は静かに続けた。

「水無月さんは、優しい。だがその優しさが、時に“誰を選んでないように”見える」

 胸の奥がズキッと痛んだ。

(……私、やっぱり曖昧なんだ)

「でもね」
 佐藤は少し笑う。

「脚本家は、自分自身の物語から逃げてはいけない。人の恋を書くなら、あなた自身の恋も嘘があってはいけない」

「……私の、恋……」

 自分でも気づかないまま漏れた声。

 佐藤は立ち止まり、あかりをまっすぐに見つめた。

「蓮は、君がいるだけで演技が変わる。翔も同じだ。美咲も、君の存在を気にしている。つまり──」

 言葉の続きを、あかりは怖くて聞けなかった。

「つまり、あなたは舞台の“中心”に立ってしまってるんだ」

 脚本家なのに。
 表に立つはずじゃないのに。

 あかりは小さく息をのむ。

「……私、どうしたら」

「簡単だよ。自分の気持ちを、誤魔化さないことだ」

 佐藤の声は、穏やかで、厳しくて、温かかった。

 その瞬間──
 廊下の向こうから軽い足音が聞こえてきた。

「……あかり」

 振り返ると、蓮が立っていた。

 稽古着のまま、息を少し弾ませて。
 迷いのない目で、あかりだけを見つめている。

 佐藤は状況を察したのか、微笑んでその場を離れた。

「じゃあ、あとは若い人同士で」

 あかりは顔が熱くなるのを感じながら、蓮と向き合った。

「……さっきは、ごめん。変な空気にして」

「ううん、蓮のせいじゃないよ」

 そう答えると、蓮は小さく首を振った。

「俺、本当は……今日、どうしても話したかったんだ」

「話……?」

「うん。脚本のことでも、稽古のことでもない」

 蓮は一歩近づいてくる。

 鼓動が、跳ね上がる。

「水無月さん……あかり。俺は──」

 その言葉が届く直前、劇場内の呼び出し音が響いた。

『桜井蓮さん、椎名美咲さん。急ぎ稽古場まで。至急お願いします』

 蓮の肩がビクッと揺れた。

「……行かなきゃ」

「うん。行って、蓮」

 蓮は悔しそうに唇を噛み、でもあかりに微笑みかけた。

「続きは、必ず話すから」

 そして、走り去る。

 あかりはその背中を見つめながら、胸に手を当てた。

(私……本当は、何を望んでいるんだろう)

 恋のリハーサルは、もうとっくに始まっている。
 そのことに、あかりはようやく気づき始めていた。