翌日。

 午前中の脚本会議を終えたあかりは、劇団の小さな休憩スペースでパソコンを閉じ、ふう、と息を吐いた。



 昨夜のことがまだ胸に残っている。

 蓮のまっすぐな言葉と、翔の一瞬の影。



 考えようとすると、胸の奥がきゅっと締めつけられた。



「……切り替えなきゃ」



 自分に言い聞かせて立ち上がると、廊下の向こうから蓮と翔が並んで歩いてくる姿が見えた。

 めずらしく、二人はまったく会話をしていない。



 蓮はどこか緊張していて、翔は普段よりも無表情だった。



 あかりの心拍数が一気に跳ね上がる。



(え……なに、この空気……)



 二人は同時にあかりに気づき、立ち止まった。



「水無月さん、お疲れさまです」

 先に口を開いたのは蓮だった。表情は穏やかだが、瞳の奥に揺らぎがある。



「おーい、センセ」

 翔はいつもの余裕ある声を出そうとしたが、どこかぎこちない。



 あかりは思わず息をのみ、どちらにも視線を合わせられない。



 そんな三人の間に──

 空気を読まない勢いで、美咲が駆け寄ってきた。



「蓮っ!今日の通し、前半の感情の入り方、ちょっと相談したくてさ!」



 腕をつかんで嬉しそうに揺らす美咲。

 その無邪気な距離感は、幼なじみならではの自然さ。



 蓮は困ったように笑う。



「あ、うん。いいけど……」



 そして一瞬だけ、あかりを見る。

 その瞳にある「気づいてほしい」という色が、あかりの胸を刺した。



 一方、翔は腕を組み、ため息をついた。



「美咲、まず台本読んでこいよ。蓮を捕まえる前にな」



「なによ、翔。あんたに言われなくてもわかってるって!」



 二人の軽い口げんかをよそに、あかりは蓮と目を合わせないまま小さく会釈した。



「じゃ、じゃあ……私、控室戻るね」



 背を向けようとした瞬間──



「水無月さん」

 蓮が静かに呼び止めた。



 あかりは振り返る。



「今日、帰り……少し話したいことがあって」



 真剣な眼差し。



 それを見た翔の視線が、あかりに突き刺さる。

 いつも柔らかく笑ってごまかす彼が、今はまったく笑っていなかった。



「……へえ。蓮、お前も言うようになったな」



 わざと軽く言っているのに、その声はどこか低い。



 蓮が少しだけ眉を寄せた。



「翔さんには関係ありません」



「あるさ。劇団の雰囲気に関わることならな」



 二人の視線がぶつかり合う。

 目に見えない火花が散るような、張りつめた空気。



 あかりは胸が痛くなるほど、二人を見つめてしまった。



(どうして……どうして私のせいで、こんな空気になるの……?)



 その時──



「君たち、廊下で喧嘩するのはやめてもらえる?」



 低めの落ち着いた声が響いた。

 演出家の佐藤だった。



「桜井、高峰。役者が感情を引きずってどうする。集中を切り替えろ」

「……すみません」

「……悪い」



 二人が同時に頭を下げる。



 佐藤はあかりを見ると、柔らかく頷いた。



「水無月さん、脚本の件であとで少し話をしたい。控室に行く前に声をかけてくれるかな」



「あ、はい……!」



 その場に流れた張りつめた空気がやっとほどけた。



 蓮はまだ何か言いたげにあかりを見ていたが、美咲に腕を引かれて稽古場へと去っていく。



 残された翔は、ポケットに手を突っ込んだまま、あかりをちらりと見る。



「センセ、……あんたさ」



「え?」



「優しすぎるの、欠点だよ。誰かを傷つけてる自覚、ある?」



 そう言うと翔は踵を返し、足早に歩き去った。



 あかりは言葉が出なかった。

 胸に落とされたその言葉が、重く沈む。



(……私、誰かを傷つけてる……?)



 答えを見つけられないまま、あかりは一人立ち尽くした。