その日の稽古終わり。
 舞台袖の灯りが落とされ、広い稽古場には、まだ木の床の余熱と、さっきまでの役者たちの呼吸の名残が漂っていた。

 あかりは脚本のファイルを胸に抱え、帰る準備をしていた。
 と、その腕をそっとつかむ手がある。

「水無月さん、少しだけ……いいですか?」

 蓮だった。
 真っ直ぐな瞳。けれど、どこか決意を固めた影が差している。

「うん。どうしたの?」
「……今日、僕、変な空気にしてしまいましたよね。高峰さんに噛みついたみたいになって」

 あかりは小さく首を振った。

「そんなことないよ。ただ──ちょっと驚いただけ」

「僕、あんなふうに感情が出るタイプじゃないのに……でも、あの時は、止められませんでした。
 水無月さんが高峰さんにああ言われて、苦しそうで……」

 蓮は唇を噛む。
 芝居の時よりもずっと、彼の表情は“蓮本人”のものだった。

「蓮くんは、優しいよ」

 あかりがそう言った瞬間、蓮の指がわずかに震えた。

「……優しいだけじゃ駄目なんだって、今日思いました」

「え?」

「僕は──水無月さんを守れるほど強くなりたい。
 役者としても、人としても。
 ……あなたが困ってる時、隣にいられるように」

 言い終えた蓮は、少しだけ視線を落とした。
 まるで告白のようだった。
 でも蓮は“まだ言わない”。彼がそう決めているのが伝わってくる。

 あかりは返事をしようとして、胸がつまる。
 言葉より先に浮かぶのは──翔の言葉だった。

〈恋する女はきれいだって言っただけだ〉
〈お前がいると空気が変わるんだよ、蓮〉

 二人の視線がぶつかった稽古場の空気。
 あれは──ただのライバル関係じゃない。

 蓮を見上げると、彼の瞳は揺れていない。
 まっすぐ、あかりだけを見ている。

「……ありがとう。蓮くんの気持ち、すごくうれしい」

 そう言いながら、胸が痛んだ。
 誰かの想いを、こうして真っ正面から受け取るのは怖い。
 返事をひとつ間違えれば、誰かが傷つく。

──私は、どうしたいの?

 答えはまだ出ない。

「水無月さん」

「ん?」

「僕……負けませんから」

 弱々しい言葉じゃない。
 静かで、でも揺るがない決意を秘めた宣言。

 ──誰に、とは言わなくてもわかる。
 蓮の視線の先には、翔がいる。

 あかりは返事の代わりに、そっと微笑んだ。

「……蓮くんなら、大丈夫。きっと強くなれるよ」

 その言葉を聞いて、蓮は一瞬、深く息を吸い──
 ふっと表情を緩めた。

「じゃあ、送ります。夜道、危ないですし」

「え? い、いいよ、そんな……!」

「いけません。これは“役者として”じゃなくて──“僕として”言ってます」

 心臓が大きく跳ねた。

 そこへ──

「おーい、センセ!」

 入口のほうから声が飛んでくる。
 翔だ。

「ちょうどいい。俺も帰るところだし、センセ、ついでに──」

 言いかけた翔の視線が、蓮とあかりの距離に止まる。

 次の瞬間、空気が変わった。

 蓮は一歩、あかりの前に出た。

「高峰さん。今日は僕が送ります」

 はっきり言い切る蓮。
 翔は一拍おいて、ふっと笑った。

「……へえ。言うようになったじゃん」

 一瞬だけ、視線が火花を散らす。

 あかりはその間に立ち尽くすしかなかった。

──三角関係は、“揺れる”なんて優しい言葉じゃすまない。

 嵐の始まりのような気配がした。