稽古場の隅。
脚本の修正箇所をまとめているはずなのに、文字がぼやけて見えた。

(……蓮くん、さっき美咲さんと楽しそうに話してた)

別に。
別に気にする必要なんてない。
蓮は役者で、私は脚本家。
立場も、距離も、最初からちゃんと決めていたはず。

恋を“リハーサル”として扱ったのも、あくまで仕事のため。
感情を入れちゃいけなかった。

……なのに。

胸の奥が、きゅうっと痛む。

「……水無月さん?」

肩にそっと影が落ちた。
振り返ると、演出家の佐藤が立っていた。

「顔色、悪いけど。大丈夫か?」

「だ、大丈夫です! ちょっと寝不足なだけで……」

無理に笑おうとした瞬間──
佐藤がふっとため息をついた。

「……脚本家は感情が仕事なんだ。無理に隠すなよ。隠すほど疲れる」

あかりはハッとして目を伏せた。

佐藤は続ける。

「言っとくが、役者同士が近いのは“よくあること”だ。
 まして幼馴染みの椎名なんて、なおさら距離が近い」

胸の奥に冷たいものが落ちてくる。

「……知ってます。職場恋愛なんて、よくあることですし」

「恋愛とは言ってないが?」

──図星だった。

あかりは俯いたまま笑う。

「佐藤さん、私って……やっぱり、バカですよね。
 プロなのに……感情、コントロールできなくて」

佐藤は首を横にふった。

「プロでも、恋はコントロールできないさ」

優しい声だった。

その優しさに触れた瞬間──
我慢していたものが、決壊しそうになる。

「……っ」

泣きそうになる。

ここで泣くわけにはいかない。
誰にも気づかれたくない。

そう思って立ち上がった時──

「水無月さん、まとめ終わった? 次のシーン、相談したいんだけど」

背後から蓮の声がした。

──心臓が止まりそうになる。

振り返りたくない。
でも、振り返らなきゃいけない。

ゆっくりと顔を上げると、蓮が困ったように笑っていた。
さっき美咲と楽しそうにしていた、その顔だ。

胸の奥がまた痛んだ。

「……ごめん。今、ちょっと……」

言葉が震えた。

蓮が眉を寄せて、心配そうに近づいてくる。

「水無月さん、本当に大丈夫? 具合悪いなら──」

「大丈夫だよ!!」

強く言ってしまった。
思ったより、声が強く響く。

蓮が驚いた顔で立ち止まる。
美咲も遠くでこちらを見ている。

あかりは息を呑んだ。

「あ……ごめん……今はちょっと無理で……」

蓮は何も言えずに、ただあかりを見つめている。

その沈黙が、いちばん苦しい。

逃げるようにあかりは歩き出した。
視界が滲む。
涙が落ちそうになる。

(こんなはずじゃなかったのに……どうして、こんなに苦しいの?)

脚本家なのに。
恋なんて書き慣れているはずなのに。

自分の恋だけは、どう書いていいのかわからない。

稽古場の出口まで来たところで──
ぽつん、と一粒涙が落ちた。

誰にも見られたくない。

でも、蓮だけには──
なぜかいちばん見られたくなかった。