稽古が終わった夜、劇場近くの小さなカフェに二人の姿があった。
 窓際の席。白熱灯の柔らかな光に照らされたテーブルの上には、あかりのノートパソコンと、小さなノート、そして湯気の立つカフェラテが置かれている。

 「……このシーン、やっぱりまだしっくりこないんです」
 画面を覗き込みながら、あかりが唇を噛む。
 恋人たちの別れを描いた二幕目の山場。
 “離れたくないのに、距離を取らなきゃいけない”──そんな繊細な感情をどう表現するか、迷っていた。

 「蓮くんなら、どうします? 本当に好きな人に“さよなら”を言わなきゃいけないとしたら」

 蓮は少し考えてから、静かに答えた。
 「……たぶん、笑って送り出す。泣かれるより、そっちの方がその人の記憶に残る気がするから」

 「優しいですね」
 あかりが微笑む。
 けれど、その笑顔の奥に、ほんの少しの切なさが宿っていた。

 「優しいんじゃなくて、臆病なんだと思う」
 蓮は視線を伏せ、コーヒーを一口飲む。
 「誰かを本気で想うのって、怖いから。失ったときの痛みを考えると、踏み出せなくなる」

 「……それ、脚本に使ってもいいですか?」
 あかりの指がノートパソコンのキーボードを叩く。
 カタカタと音が響き、彼の言葉が物語の中に刻まれていく。
 横には、手書きのメモ帳。そこには走り書きで〈優しさ=臆病さの裏返し〉と書かれていた。

 「書いてるとき、あかりさんって、いつも真剣だよね」
 蓮が小さく笑う。
 「なんか、見てると息するの忘れそうになる」

 「えっ……?」
 思わず顔を上げたあかりと、視線がぶつかる。
 その距離、テーブル越しのわずか数十センチ。
 店内のざわめきが遠くに溶けていく。

 「……ごめん、変なこと言った」
 蓮が目をそらし、照れくさそうに頭をかいた。
 「いや、その……演出の話だから」

 「う、うん、わかってます。演出ですよね」
 あかりも慌てて笑う。
 だけど胸の鼓動が、いつもより少し早い。
 “演出”という言葉が、どこか空しく響いた。

 カフェの外は、夜の街灯が静かに輝いている。
 二人の間に沈黙が落ち、しかし不思議と居心地は悪くなかった。
 むしろその沈黙が、互いの呼吸を近づけていくようだった。

 「ねえ、蓮くん」
 あかりがそっと口を開いた。
 「もし、演技じゃなくて本当に好きになったら……どうします?」

 蓮は一瞬だけ彼女を見つめ、それから静かに微笑んだ。
 「そのときは、リハーサルじゃなくて、本番で答えるよ」

 あかりの心臓が、大きく跳ねた。
 夜の静寂の中、ノートパソコンの画面に映る二人の顔が、ほんの少しだけ近づいて見えた。

 ──距離はまだ近くない。けれど、確かに“縮まった”瞬間だった。