稽古場の空気は、少しだけ重たかった。

 椎名美咲がヒロインの代役に決まってから、桜井蓮の周りはどこか落ち着かない。
 高峰翔は相変わらず余裕の笑みを浮かべているが、その瞳の奥には競争心がきらりと光っていた。

 そして──そのすべてを、ほんの少し離れた席から見てしまっているのが、水無月あかりだった。

 「今日の台本、修正入れておきました。佐藤さん、こちらです」

 あかりは演出家・佐藤に新しい脚本を渡す。
 落ち着いているように見えるが、胸の内は騒がしい。
 稽古の合間、蓮と美咲が話していた距離の近さが、どうしても頭から離れなかった。

 ──別に。心配なんて、してない。
 ──ただ……気付いてしまっただけ。

 美咲が蓮を見る目が、かつて好きだった人を見るそれのままだと。

 「……あかり?」

 声をかけられ顔を上げると、蓮が心配そうに覗き込んでいた。

 「大丈夫? なんか元気なかったけど」

 「えっ、あ……うん、ちょっと寝不足なだけ」

 慌てて笑顔を作るあかり。
 しかし蓮の視線は一瞬だけ、美咲のほうへ向き──すぐ戻る。

 「無理しないでよ。あかりが倒れたら、俺……困るから」

 優しい声。
 こんなとき、いつも真っ直ぐに気にかけてくれる蓮に、胸の奥がふっと温かくなる。

 だけど、すぐに横から割って入る声がした。

 「蓮、次のシーン合わせしよ?」

 美咲だ。
 蓮の腕を軽く引き、当たり前のように隣に立つ。

 その瞬間──あかりは気付く。
 胸の奥の温かさが、ゆっくりと冷たいものに変わっていくことに。

 「……うん。あかり、ちょっと行ってくるね」

 「うん、行ってきて」

 笑顔はつくった。だが心は正直だ。
 蓮の背中を目で追ってしまう自分が、あかりは少しだけ苦しくなる。

 そんなあかりの様子を、壁際からじっと見ていた人物がいた。

 高峰翔──蓮のライバル。

 「……ふん。やっぱり面白いな、この三角関係」

 誰にも聞こえない声で呟き、翔はゆっくりとあかりのほうへ歩き出した。