恋のリハーサルは本番です

短い休憩が終わると、再び稽古場に緊張が戻った。

蓮は自分の席に戻り、台本をめくりながら何度も深呼吸している。
美咲はペットボトルの水を握りながら、遠くからじっと蓮の横顔を見つめていた。

そして、あかりは──
蓮に「よかった」と告げてしまった自分を思い返し、胸の奥が静かにざわついていた。

(あれじゃ、まるで……役者としてじゃなく、ひとりの女として言ったみたいで)

そうじゃない、と自分に言い聞かせようとしても、言葉が空回りする。

すると、翔が隣に座り、あかりの手元を覗き込んだ。

「センセ、顔赤いよ?」

「えっ……! あ、あの、これは……」

「蓮の演技のせい?」

からかうような声に、あかりは反射的に否定した。

「ち、違います! そんなわけ……!」

「へぇ? じゃあ、誰のせい?」

翔の目はどこか悪戯っぽく、でも優しさが滲んでいる。
あかりは言葉に詰まり、視線を下げた。

翔は軽く肩をすくめ、

「ま、役者と脚本家って、本当は近いようで一番距離のある職種だからね。
感情に巻き込まれやすいのは、あんたのほうかもよ?」

「……どういう意味ですか?」

「台本に感情乗せるのは脚本家。
でも、その言葉を“現実の誰か”に向けちゃうのは、役者だ」

その言葉はやけに刺さった。

(現実の誰か──)

それは、蓮のことか。
それとも、美咲のことか。
それとも……自分なのか。

考えたくないのに、胸の奥が勝手に騒ぎ始める。

そのとき佐藤が声を上げた。

「はい、次のシーン入るぞー! 蓮、美咲、舞台へ!」

美咲が立ち上がる。
すれ違いざま、あかりに小さく声をかけた。

「……ありがとうね。台本、すごくよくなってる」

「え、えっと……」

美咲は柔らかく笑う。

だがその笑顔の奥に、
胸の奥にしまっていた感情を押し殺しているような、
そんな陰が見えた。

舞台に立った美咲の背中を見て、あかりは胸が痛くなる。

(美咲さんは……蓮さんのことをまだ……)

そして蓮の動きにも、その気配を敏感に感じ取れた。

蓮は美咲から絶妙に“距離を置いている”。
近すぎず、遠すぎず。
プロとして振る舞おうと、必死に線を引いているようにも見える。

佐藤が指揮棒を振るように声を上げた。

「それじゃ、32ページ! 恋人役のふたり、夜の屋上のシーン!」

蓮と美咲が向かい合い、ゆっくりと息を整える。

あかりは、タブレットを握る手に気づかぬうちに力を込めていた。

(このシーン……“告白寸前”のシーン……)

書いた本人のあかりでさえ胸が痛むような、繊細な感情のやり取り。

佐藤がカウントを始める。

「3……2……1……はい!」

蓮が口を開く。

「──気づいてしまったんだ。
君の笑顔を見るだけで、胸が熱くなるって」

美咲の目が揺れ、わずかに潤んだ。

その瞬間、
蓮の視線がほんの一秒だけ“舞台の外のあかり”に向く。

一秒。

たったそれだけなのに、あかりの胸は大きく跳ねた。

美咲も、その一瞬に気づいた。

演技の表情が震え、言葉が止まりそうになる。

蓮は慌てて視線を戻し、演技を続ける。

だが──その一瞬が、稽古場の空気を変えた。

『あの感情は誰に向いているのか?』

それを、
美咲も、翔も、佐藤も、そしてあかり自身も──
痛いほど理解してしまったからだ。

佐藤が手を叩いた。

「一度止めよう。蓮、集中切れたか?」

蓮は顔を赤くしながら、言い訳するように首を振る。

「い、いえ……すみません。もう一度お願いします」

美咲は笑ってみせた。

「ううん、大丈夫だよ。もう一回、やろ?」

その声は優しいのに、どこか寂しかった。

あかりは胸をぎゅっと押さえ、俯いた。

翔はそんなあかりを見て、深いため息をついた。

「……ほらな。距離、ちょっとずつバグってきてる」

あかりは顔を上げる。

「翔さん……どうしたら……」

「知らねぇよ。俺は役者だし。
ただ……脚本家のあんたが潰れんのは見たくねぇ」

翔のその言葉は、不思議とあかりを救った。

しかし、救われた瞬間──

蓮の声が、稽古場にはっきり響いた。

「……もう迷わない。
絶対に離さない。
たとえ誰に何を言われても、君だけは……」

脚本のセリフなのに。

そう書いたのはあかりなのに。

それでも──
あかりは誰よりもその言葉に揺れてしまった。

美咲は俯いた。

翔はあかりをちらりと見る。

蓮は誰かを強く想いながら、セリフを言っていた。

稽古場には、
舞台の距離ではなく──
心の距離のほうがよほど大きく見えてしまう空気が漂っていた。