稽古場の隅。

水無月あかりは、タブレットと台本の束を胸に抱えて、そっとドアを開けた。



「おはようございます、水無月さん」



最初に気づいたのは演出家・佐藤だった。

彼は手元の演出メモを閉じると、軽く片手を上げる。



「あの、昨日いただいた改稿部分。今日の立ち稽古で試してみようと思って」



「はい。意図の共有だけ、少しさせてください」



あかりは脚本家らしく、控えめに、しかし真剣な眼差しで応じた。



視線を巡らせると、舞台中央では桜井蓮と椎名美咲がセリフ合わせをしている。

美咲はあかりに気づき、一瞬びくりと肩を震わせた。



「(やっぱり緊張させちゃうよね……)」



あかりは胸の奥で小さく息を吐く。

別に美咲を責めているわけでもないし、役を奪われた感情なんてない。

ただ──蓮と美咲の距離が近い場面を見ると、胸のどこかがきゅっと鳴った。



蓮の視線もあかりに気づき、ぱっと表情が明るくなる。



「……あかりさん、今日来てくれたんだ」



その声音に、美咲がわずかに反応する。

小さな三角関係の影が、稽古場の空気をほんの少しだけ波立たせた。



そこへ、遅れて高峰翔が入ってくる。



「お、脚本家のセンセ。今日も見学?」



軽口を叩きながらも、翔の視線は一瞬、蓮と美咲、そしてあかりの位置関係を読み取った。



「俺、今日の新しいシーン楽しみにしてんだ。センセの台本、演る側として燃えるんだよね」



『センセ』と呼ばれるたびに、蓮が微妙にむずがゆそうに視線をそらす。

その仕草が、また美咲の胸をざわつかせる。



佐藤が手を叩いた。



「よし、じゃあ“改稿14シーン”立ち稽古いくぞ!

水無月さん、今日は意図を近くで見てもらえると助かる」



「はい、よろしくお願いします」



あかりは舞台袖に移動し、稽古を見る体勢に入る。



蓮が横を通り過ぎながら、小声で言った。



「……来てくれて、嬉しいです」



「っ……稽古、頑張ってください」



短いやり取り。

でもそれだけで、あかりの胸は落ち着かない。



蓮の言葉の本当の意味を考えてしまう。

いや、考えちゃいけない。

これは仕事だから。

脚本家と役者だから。

距離を置かないと──そのはずなのに。



舞台中央で、美咲がセリフを始める。



先ほどまで緊張していた彼女の声が、急に伸びやかになった。



「蓮くん、今日の美咲……なんか違う?」



隣で翔が囁く。

意地の悪い笑顔ではない。本物の演者としての興味だった。



蓮は美咲を見つめて、ほんの少し驚いたように言った。



「……ああ。美咲、今日すごくいい。」



その言葉に、美咲の頬がわずかに赤く染まる。



あかりは胸の奥が、また静かに痛んだ。



「(どうして、私はこんなに……)」



理由はわかっている。

けれど──認めてはいけない。

脚本家は、役者に恋してはいけない。



舞台上では、蓮と美咲の芝居が熱を帯び始める。



舞台袖で、あかりはそっとペンを握りしめた。

もう、手が少し震えていることにも気づかないまま。