恋のリハーサルは本番です

翌朝の稽古場には、昨日の空気がまだ残っていた。
 蓮は早めに来てストレッチをしていたが、どこか落ち着かない。

(……水無月さん、昨日のあと連絡くれなかったな)

 修正台本の件で相談があるのなら、メッセージの一つくらいあってもいい。
 でも、彼女は沈黙を守った。

 そこへ、稽古場の扉が開く。

「あ……」

 忘れたくても忘れられない声。
 水無月あかりが、台本の束を胸に抱えて入ってきた。

 蓮は思わず立ち上がる。

「おはようございます、水無月さん」

「あ……おはよう、ございます……桜井くん」

 昨日とは違う。
 あかりは明らかに距離を置こうとしている。
 いつもより一歩深く頭を下げ、蓮の隣を避けるようにテーブルへ向かった。

(やっぱり……なんか変だ)

 蓮が近づこうとすると──

「蓮!」

 高峰翔が肩を掴んで止めた。

「昨日の演技、気持ち入りすぎだろ。
 ヒロイン役の美咲までドキドキしてたぞ?」

「翔……変な言い方するなよ」

「お前が鈍いんだよ。
 ──いや、鈍いふりしてるのか?」

「は?」

 翔はいたずらっぽく笑い、蓮の肩に腕を回した。

「気づいてるだろ?美咲の気持ち」

 その瞬間、蓮の表情が固まる。
 視線を横にずらせば──美咲がこちらを見ていて、すぐに視線をそらした。

 胸がざわつく。

(知ってる。……知ってたんだ。
 でも俺は──)

 あかりのほうを見た瞬間、美咲が一歩近づいてきた。

「蓮、今日もよろしくね。
 昨日の続き……もっと良いシーンにしよう?」

 笑顔は眩しいけれど、その奥にある感情に蓮は気づいてしまう。

「……ああ。よろしく」

 それしか言えなかった。



 休憩時間。
 あかりは台本の修正案をプリントし、ひとりでチェックしていた。

(蓮くんに……頼りそうになった)

 昨夜、メッセージできなかった理由。
 それは簡単。

 頼れば、距離が縮まってしまう。
 縮まったら、きっともう戻れない。

(私、脚本家で……彼は役者で……)

 線を引かないと、自分が苦しくなる。
 そう思っていた。

 なのに──

「水無月さん」

 声が近い。
 顔を上げると、蓮が不器用な笑顔で立っていた。

「修正……できましたか?
 俺でよければ、見ますけど」

 だめ。
 そんな優しさを向けないで。

「大丈夫です。もう全部……終わりましたので」

 笑顔を作ろうとするが、うまくできない。
 蓮は一瞬、傷ついたように目を伏せた。

「そっか。……よかった」

 それだけ言い残して、離れようとした──が。

「桜井。次のシーン、少し見てもらうぞ」

 佐藤が蓮を呼んだ。
 蓮は「あ、はい!」とそちらへ向かう。

 その背中を見つめながら、あかりは胸を押さえた。

(ほんとは……話したいのに)

 距離を置くほど、恋が深くなるなんて。

 どうしてこんなに不器用なんだろう。


 稽古再開。

 蓮と美咲のラブシーン。
 昨日の続き──ヒロインが主人公に心を開いていく場面。

「蓮……私ね……あなたのこと……ずっと……」

 美咲の声が震える。
 演技──だけど、本音も混じっていた。

 蓮はその揺れる目を見て、息を呑んだ。

「美咲……」

 蓮の台詞も、どこか苦しげだった。

 見ていたあかりは、胸が締めつけられる。

(……演技だよね。演技……なのに)

 痛いくらいに胸が鳴っている。

 翔はその様子を横目で見て、ひとり納得したように微笑んだ。

「三角関係。舞台より面白いかもな」

 誰にも聞こえないように呟いた。



 稽古後。
 あかりは台本をバッグに詰め込み、急いで帰ろうとしていた。

 しかし、出入口の手前で──蓮と鉢合わせる。

「あ……」

「水無月さん、少し……話せますか?」

 蓮の目は真剣だった。
 逃げられない。

(……どうしよう)

 胸がドキンと跳ねる。
 ワクワクと、不安が半分ずつ。

 そして──二人の距離が、また近づいてしまう。

 それが正しいのかどうかは、まだ誰にもわからなかった。