翌日の稽古場。

蓮の演技は、明らかに変わっていた。

「僕は君に会うために、この街に来たんだ」

自然な演技。

感情が込められている。

「素晴らしい!」

演出家の佐藤が拍手した。

「桜井、どうしたんだ?別人みたいだぞ」

「ありがとうございます」

蓮は嬉しそうに笑った。

遠くから見ているあかりも、満足そうに頷いている。

「このまま続けてくれ。期待してるぞ」

「はい!」

稽古が終わり、蓮とあかりは一緒に劇場を出た。

「蓮さん、すごかったです!」

「あかりさんのおかげです」

「そんな。蓮さんの努力ですよ」

二人は笑顔で歩いている。

その時──

「よお、桜井」

声がした。

振り返ると、そこには見知らぬ男性が立っていた。

いや、見知らぬではない。

「高峰...さん」

蓮は驚いて立ち止まった。

高峰翔。

人気若手俳優。

蓮と同じ劇団に所属していたが、今は大手事務所に所属している。

「久しぶりだな。初舞台、頑張ってるか?」

「はい...おかげさまで」

翔は蓮を見下すように笑った。

そして、視線をあかりに向ける。

「で、こっちの可愛い子は?」

「あ、この方は水無月あかりさん。今回の舞台の脚本家です」

「脚本家?」

翔は驚いたように眉を上げた。

「こんなに若くて可愛い子が?」

「水無月あかりです」

あかりは丁寧にお辞儀した。

でも、その表情は硬い。

「高峰翔。俺のこと、知ってる?」

「はい...お顔は存じ上げております」

「そっか。じゃあさ、今度食事でもどう?脚本の話、聞きたいし」

「お断りします」

あかりは即答した。

翔は意外そうな顔をする。

「冷たいなあ。ていうか、お前ら付き合ってんの?」

「違います!」

蓮とあかりが同時に否定した。

「そっか。なら問題ないよな」

翔はあかりに近づく。

「連絡先、教えてよ」

「結構です」

あかりは一歩下がった。

蓮が間に入る。

「高峰さん、あかりさんに近づかないでください」

「おや?できてないって言ったじゃん」

「仕事仲間として、言ってるんです」

「ふーん」

翔は面白そうに笑った。

「まあいいや。じゃあな、桜井。初日、楽しみにしてるよ」

そう言って、翔は去っていった。



翔が見えなくなってから、あかりが小さく息を吐いた。

「すみません、蓮さん」

「え?何がですか?」

「変な人に絡まれちゃって」

「いえ、あかりさんは悪くないです」

蓮は優しく言った。

「高峰さん、ああいう人なんです。でも、俳優としては凄い人で...」

「蓮さんとは、どういう関係なんですか?」

「同じ劇団にいました。でも、彼はすぐに有名になって...俺とは違う世界の人です」

蓮の声には、少しだけ劣等感が混じっていた。

「そんなことないです」

あかりが強く言う。

「蓮さんは、蓮さんです。誰かと比べる必要なんてありません」

「あかりさん...」

「それに、私は蓮さんの演技の方が好きです」

「本当ですか?」

「本当です」

二人は見つめ合った。

でも、さっきの翔の言葉が、頭に残る。

「お前ら付き合ってんの?」

違うと否定した。

でも、心のどこかで──

いや、考えないようにしよう。

「帰りましょうか」

「はい」

二人は並んで歩き始めた。

でも、どこかぎこちない空気が流れていた。


その夜、蓮は自分の部屋で悶々としていた。

「『付き合ってんの?』か...」

翔の言葉が、頭から離れない。

付き合っているわけじゃない。

あれは、演技の練習。

恋愛リサーチ。

でも──

「俺は、あかりさんのことが好きだ」

認めてしまった。

もう、隠せない。

でも、告白する勇気がない。

「もし断られたら...」

今の関係さえ、壊れてしまうかもしれない。

それが怖い。

スマホが鳴った。

メッセージ。あかりからだ。

『明日、少し早めに集まれますか?話したいことがあります』

話したいこと?

蓮の心臓が早鐘を打つ。

もしかして──

いや、違う。きっと稽古のことだ。

『大丈夫です。何時にしますか?』

『午前9時に劇場で』

『分かりました』

メッセージを閉じて、蓮は深く息を吐いた。

「明日...何を話されるんだろう」

不安と期待が入り混じる。

眠れない夜が、また始まった。



あかりも、同じように眠れない夜を過ごしていた。

ベッドに座って、ノートを開く。

「恋愛リサーチ計画」

そこには、これまでのデートの記録が書かれている。

手を繋いだこと。

映画を見たこと。

楽しかった思い出。

「これって...本当にリサーチなの?」

自分に問いかける。

最初はそのつもりだった。

蓮の演技のために、恋愛を教える。

でも、いつの間にか──

「私、本気になってる」

認めてしまった。

蓮のことが好き。

でも、どうすればいいのか分からない。

「明日、ちゃんと話さないと」

このままじゃ、蓮に迷惑をかけてしまう。

演技の練習のつもりが、自分だけ本気になっている。

それは、フェアじゃない。

「一度、距離を置くべきかな」

でも、その考えに心が痛む。

蓮と会えないなんて、考えられない。

「どうしよう...」

あかりはノートを閉じて、ベッドに倒れ込んだ。

恋って、こんなに苦しいものだったんだ。

脚本では何度も書いてきた。

でも、実際に経験するのは初めて。

「蓮さん...」

名前を呼ぶだけで、胸が締め付けられる。

明日、何を話そう。

答えは、まだ出ていなかった。