稽古場の照明がゆっくり落ち、今日の稽古は終了した。
神埼が最後の確認を行い、演出家の佐藤が細かな修正点を伝えると、団員たちは三々五々帰り始める。

あかりは台本を抱えながら、ひとまず自分の荷物をまとめようと隅の机へ向かった。
しかし、耳に入ってくる声が気になり、手が止まった。

それは──蓮と美咲の声。

舞台袖の奥。薄暗いカーテンの向こうから、ひそやかに聞こえてくる。

(……あの二人、まだ残ってるんだ)

帰る前に少しだけ、と思ったが、足は自然と声の方へ向いていた。

 

カーテンに手をかけた瞬間、聞こえてしまった。

美咲の震える声。

「ねぇ蓮……どうして、そんなに距離を置くの?
高校のときみたいに、もっと頼ってくれてよかったのに」

(え……)

蓮の返事はすぐには返ってこなかった。
長い沈黙のあと、低い声が落ちてくる。

「……ごめん、美咲。
俺、昔みたいには戻れないと思う。いまは──」

(いまは?)

息が止まるような緊張を抱えたまま、あかりは静かにカーテンの影で立ち尽くした。

美咲が一歩近づく音。

「いまは……誰か、好きな人でもいるの?」

その問いかけは、空気を震わせた。

あかりの心臓が跳ねる。
鼓動の音が自分だけに響いているのを、必死で押さえ込んだ。

蓮の返答は、苦しそうだった。

「……自分でも、よく分からない。ただ……
その人のことを考えると、胸が苦しくなるんだ」

(……っ)

あかりの指が震え、台本の端を強く握りしめた。

美咲の声が、少しだけ潤む。

「それって……私、じゃないんだよね?」

蓮は答えられなかった。
代わりに、静かで痛い沈黙だけが流れた。

その沈黙こそが、答えだった。

美咲は、かすかな笑いを混ぜて言う。

「……わかってた。
蓮、台本読むとき……あかりさんの方ばっかり見てるもん」

──え?

思わず身を引きそうになった。

美咲は続ける。

「たぶん……蓮自身が気づいてないだけだよ。
あかりさんのこと、特別に見てるってこと」

(わ、私……?)

頭が真っ白になる。

気づかれないよう息を潜めているつもりが、胸の鼓動が大きすぎて隠せない。

蓮の声が、ゆっくりと落ちてきた。

「……俺には、関係ない世界の人だよ。
役者と脚本家の線って、越えちゃいけないんだ」

その言葉は優しいのに、残酷だった。

(線……? 越えちゃいけない……?)

まるで自分に言い聞かせているように、蓮の声は苦しそうだった。

美咲がそっと言う。

「それでも想ってしまうなら……それが本音なんだよ、蓮」

蓮は答えず、深く息を吐いた。

あかりは、カーテンの陰にそっと身を引いた。
涙が出そうで、誰にも気づかれたくなくて、その場を離れる。

出口までの通路が、やけに長く感じた。

(蓮は……私のことを……?
でも……境界線を引いてるのは蓮じゃなくて、私の方だよね)

心が揺れて、苦しくて、でもどこか温かくて。

舞台の裏側で聞いてしまった“本音”は、
脚本なんて関係なく──あかりの心を大きく変え始めていた。