恋のリハーサルは本番です

稽古場に、張りつめた静寂が落ちた。

 佐藤演出家の「続きはお前ら自身の問題だ」という言葉が、まだ空気中に残って揺れているようだった。



 蓮は一度あかりを見かけたが、その視線はすぐ逃げるように床へ落ちた。



 ──逃げないで。

 あかりはそう思ったが、声にはできなかった。









「はい、10分休憩!」

 佐藤が声を上げると、役者たちは散らばるように各自の位置へ向かった。



 翔はその場に残り、蓮の背中を軽く叩く。



「お前さ、もうちょい正直に生きたほうがいい」



「……翔さんには関係ないですよ」



「いや、ある。だって俺、あかりちゃん好きだし?」



「はっ!?」



 蓮が大きな声を出し、あかりまで思わず振り返った。



 翔は笑いながら手を振る。



「冗談。でも……このままだと、本当に誰かに取られるぞ」



 蓮の喉が鳴った。

 翔は続ける。



「舞台でも、恋でも、後悔したやつが負けだ」



 その言葉は蓮の胸を刺した。









 一方、美咲は壁にもたれ、あかりをじっと見つめていた。

 そのまなざしは優しいのに、どこか切ない。



「あかりさん」



「……美咲さん」



「誤解しないでね。私は蓮の味方だけど……あなたの敵じゃない」



 美咲は淡く笑った。



「ただね、蓮は鈍いの。誰かを守りたい時、逆に距離をとっちゃうタイプ」



「……距離、ですか」



「あかりさんに迷惑をかけるのが怖いんだと思う。だって、あなたは脚本家で……蓮は役者だから」



 あかりは目を伏せた。



 ──そこ。

 そこが一番、痛い。



「だからね、あかりさん。蓮が進めないなら……あなたが一歩、近づいてみてもいいんじゃない?」



「あたしが?」



「うん。舞台の脚本も、恋の脚本も……書くだけじゃ、伝わらないことがあるよ」



 美咲の笑みは、ほんの少し滲むように切なかった。









 蓮は誰もいない舞台袖にひとり立ち、ぎゅっと拳を握っていた。



 ──俺は、また同じことを繰り返すのか。

 誰かを大事に思うほど、遠ざけてしまう悪い癖。



「……怖いんだよ」



 誰もいないのに、つぶやきが漏れる。



「もし俺の想いが迷惑だったら。

 もし、あかりが仕事をやりにくくなるなら……」



 揺れる視線の先には、モニター前で台本を抱えて立つあかりがいた。

 その手が小刻みに震えているのが見える。



 ──あかりだって、苦しんでる。



 その事実に気づいた瞬間、蓮の胸が痛みで強く締めつけられた。









「さーて、休憩終わり!」

 佐藤がパンと手を叩き、場が引き締まる。



「次は、さっきの告白シーンの“改訂版”をやってみる。

 水無月、ちょっと前に来て」



「えっ、私ですか?」



「そう。作者の意図を、役者たちに直接説明してくれ。演技の距離感についても」



 あかりはモニター前からゆっくりと立ち上がる。

 胸が早鐘のように鳴る。



 蓮も、翔も、美咲も、あかりを見つめた。







「……このシーンは、誰かを想っていても、その気持ちを抑えたり、距離を置いたりしてしまう……そういう二人の“すれ違い”がテーマなんです」



 台本を握りながら、あかりは震える声で続ける。



「でも本当は……伝えないほうが、相手を傷つける時だってあると思うんです。

 近づくことを怖がって、何も言わないままだと……その距離は、ずっと埋まらないままだから」



 蓮の瞳が揺れた。



「だから……このシーンの主人公には、一歩だけ踏み出してほしい。

 それが、例えうまくいかなくても……後悔しないために」



 稽古場の空気が、ふっと静かに震えた。



 あかりの言葉は、台本の説明ではなく──

 蓮へのメッセージだと、誰もが気づいた。



 蓮の喉が大きく上下する。



 しかし、言葉はまだ出てこない。









「よし、じゃあこの温度で、もう一度頭から行こうか」



 佐藤の声で、次の稽古が始まる。



 けれど蓮の胸にはもう、別の幕が開きかけていた。



 演技の距離──そして、心の距離。

 どちらを埋めるべきか答えを出す時が、近づいている。