恋のリハーサルは本番です

稽古場を出て、あかりは一人で資料室に戻ってきた。
 長机の上にはノートパソコン、散らばる付箋、そして昨夜のコーヒーの紙カップ。

(……蓮の言葉、まだ胸に残ってる)

 “本当の気持ちで書いてくれ”

 俳優としての要求だと頭ではわかる。
 けれど、心はそうじゃない意味まで勝手に拾ってしまう。

「……はぁ」

 深く息を吐いてパソコンを開く。
 白い画面に向かうと、胸の奥で何かがざわめいた。

 書かなきゃいけない。
 でも、書けば書くほど、蓮への気持ちがにじみ出てしまう気がして怖い。

 そんな時だった。

「おーい、水無月さん、まだ仕事してんの?」

 軽いノックとともに扉が開き、高峰翔が顔を出した。
 相変わらず、どこか余裕を含んだ笑みを浮かべている。

「あ、翔さん……。ちょっと、改稿が残っていて……」

「蓮とのやつ?」

 図星を刺されて、あかりの肩がびくっと跳ねた。

「……どうして、そう思うんですか?」

「わかるって。あいつ、最近ずいぶん熱入ってるからさ。
 で──その分、君の顔色も悪くなってる」

 翔は部屋に入り、あかりの隣に座った。
 少し距離が近い。

 けれど彼の声はいつになく優しかった。

「君、ちゃんと休んでる? 無理してない?」

 あかりは答えられず、視線を落とす。

「蓮のために書こうとしてるだろ。
 ……それ、自分を追い詰めるだけだって」

「そ、そんなこと……」

「あるよ」
 翔の声が低くなる。

「俺だって俳優やっててわかる。
 本気になりすぎると、作品が苦しくなるんだよ」

 その言葉は、あかりの胸に静かに刺さった。

「蓮は悪気ない。
 ただ、君が遠くなるのが怖いんだと思う」

「……わたし、蓮くんにそんなふうに見えてますか?」

「見えてるね」
 翔が苦笑する。

「ま、俺からしたらチャンスだけど」

「え?」

「だって、蓮が君を見る目……最近ちょっと複雑だからさ。
 その隙間に、俺が入れるかなーって思って」

 冗談めかして言うが、目は笑っていなかった。
 本気の色が見える。

「翔さん……?」

「冗談半分、本気半分。
 君、魅力あるよ。放っとけないくらいに」

 そんなことを言われたのは初めてで、あかりは頬が熱くなる。
 でも同時に胸の奥が、少しだけざわついた。

(違う……違う。翔さんは優しいから……!)

 そこへ、資料室の扉が開く音がした。

「──あかり?」

 振り向くと、桜井蓮が立っていた。

 あかりと翔が並んで座る姿を見た瞬間──
 蓮の表情から、血の気が引いた。

 翔は振り返り、気まずさの微笑を浮かべる。

「おっと。いいタイミング、ってわけでもないか」

 蓮は声を絞り出すように言った。

「……あかり。ようやく話せると思って来たのに。
 ……高峰さんと、何してたの?」

「あ、あのっ……! 別に、何も……!」

「“何も”に見えなかったけど」

 蓮の視線は、あまりにも正直だった。
 悔しさ、不安、嫉妬、焦り──
 全部隠しきれていない。

 あかりの胸が強く締めつけられる。

「蓮、誤解してるよ」
 翔が立ち上がる。

「俺はただ、水無月さんが無理してないか気になって──」

「……それを気にするのは、あかりの近くにいる人の役目じゃないのか」

 蓮の一言が、資料室の空気を凍らせた。

 翔は黙り、あかりは動けなくなり──

 二人の視線の間に、解けない緊張が張りつめた。

(どうして……どうしてこんな空気になるの……)

 蓮の目に映る感情の濁りが、あかりを揺らす。

──蓮のために距離を置いたはずなのに。
──距離を置いたせいで、余計に傷つけてしまっている。

 あかりは気づいてしまった。

(……わたし、どうすればいいの……?)

 その問いは、胸の奥でそっと震えていた。