恋のリハーサルは本番です

稽古場の空気は、夕方になると少し冷たくなる。照明が落ち、音のない時間が訪れた瞬間——
 椎名美咲が、そっと台本を抱えてあかりに近づいてきた。

「あかりさん……ちょっと、いい?」

 声は穏やかだが、どこか覚悟のような硬さを含んでいた。
 あかりはペンを置き、小さくうなずく。

「はい。美咲さん、どうしました?」

「これ……蓮に言われて、新しいシーンの確認をしてほしいって。演出プラン、佐藤さんとも少し話してて……」

 そう言って差し出した紙束は、あかりが昨夜書いたばかりの改稿部分だった。

「あれ? 佐藤さんと?」

「うん。蓮が “もっと深く掘れるはずだ” って言ってて……」

 その言い方に、あかりの胸がちくりとした。
 自分の書いた言葉が「足りない」と言われるのは、脚本家として当然の道だと分かっている。
 それでも、蓮から直接ではなく──美咲を経由して届くところが、苦しかった。

「水無月、このシーン、どうしたい?」

 突然背後から声がして、二人は振り返る。

 演出家・佐藤が腕を組み、あかりの表情をじっと読み取ろうとしていた。

「……どう、とは?」

「君がこの場面で“本当は誰を動かしたいのか”がまだ曖昧だ。
 俳優が迷えば、舞台は必ず揺れる。脚本家の心が揺れたままだと、俳優も揺れるんだよ」

 ──図星だった。
 あかりのペン先は──“蓮への想い”と“脚本家としての距離”の狭間で揺れ続けていた。

「椎名、美咲。桜井を呼んで来てくれるか?」

「わかった」

 美咲が走り出す。
 残った佐藤は、あかりを真正面から見据えた。

「水無月。君、最近少し無理してない?」

「そんなこと……」

「書ける人間ほど隠す。
 でも、俺にはわかる。君は“個人的な感情”を切り離そうとして、逆に不自然な隙間が生まれてる」

 あかりは息を呑む。

「脚本は、心を削る仕事だ。
 でも──削りすぎると、舞台から温度が消える」

 佐藤の声は厳しいが、温かかった。

「桜井と何があったのかは聞かない。
 ただひとつだけ言う。俳優と脚本家は、戦友だ。
 距離を置きすぎたら、舞台は成立しない」

 その言葉が胸に刺さった。
 まさに──あかりと蓮の距離が、作品の中にも影を落としている。

 そこへ美咲が戻ってきた。

「蓮、来たよ」

 扉の向こうに立つ蓮は、息を切らし、そしてあかりと目が合った瞬間、言葉を失った。

「蓮、お前はどう思ってる?」

 佐藤が促す。

 蓮は台本を握りしめたまま、喉を鳴らし──
 ゆっくりと、あかりの方へ歩み寄る。

「……あかり。
 このシーン、もっと……もっとあかりの言葉が欲しいんだ」

「わたしの……?」

「台本読んでてわかった。
 最近のあかり、無理して“冷静な距離”を取ってるだろ。
 その距離が……役の距離にも滲んでる」

 あかりの心臓が跳ねた。

「だから、言ってほしい。
 ……本当の気持ちで、書いてくれ」

 静かな稽古場に、彼の声だけが落ちる。

 美咲が僅かに唇を噛む。

 佐藤は黙って見守る。

 あかりの手は、小さく震えていた。

──恋と仕事を混ぜてはいけないと、何度も言い聞かせてきた。
──でも、心を閉ざした脚本は、どこか冷たかった。

あかりは、蓮を見つめ返し──

「…………わかった。
 逃げないで書く。
 ちゃんと、向き合うよ」

 蓮の表情が、ほんの少しだけ、柔らかく緩んだ。

 その笑顔が胸を締めつける。

 美咲は視線をそらし、誰にも見られないように小さく涙を拭った。

 三人の感情が、静かに絡まり始めていた。

──舞台の幕はまだ上がっていない。
──けれど、すでに誰も引き返せないところまで来ていた。